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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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147/156

第147話 東照宮への道

 寛永寺が完成して三日。

 江戸の北には、新しい木の香りがまだ濃く残っていた。


 町人たちは口々に言う。


「北から良い風が吹く」

「江戸が落ち着いたな」

「天海様のおかげだ」


 江戸は確かに静まり、

 “心”を得た都の顔を見せ始めていた。


 だが──

 私の胸の底には、

 消えきらぬ“澱”が静かに沈んでいた。


 痛みではない。

 ざわめきでもない。

 ただ、

 長い旅路の終わりに近づいた者だけが感じる

 “余熱”のようなものだった。


---


 その日の午後、

 家光様が寛永寺を訪れた。


 完成した本堂を見上げ、

 しばらく言葉を失っていた。


「……美しいな」


「ありがとうございます。

 江戸の心が、ようやく形となりました」


 家光様はゆっくりと息を吐いた。


「天海。

 私は……

 もうひとつ、成すべきことがある」


 胸の奥の澱が、

 わずかに揺れた。


「成すべきこと、でございますか」


「祖父上を……

 日光に祀りたい」


 その言葉は、

 静かだが確かな重みを持っていた。


---


「日光……」


 私はその名を口にした。


 山の気が強く、

 古来より“神の座”と呼ばれた地。


 そこに家康殿を祀るということは──

 **家康を“光”として永遠に据える**

 という意味を持つ。


「家光様。

 それは……

 大きな決断にございます」


「わかっている」


 家光様は本堂を見つめたまま言った。


「祖父上は……

 江戸を作った。

 泰平の礎を築いた。

 その祖父上を、

 私は“光”として祀りたい」


 その言葉は、

 家光様の“初めての主体的な願い”だった。


---


「天海。

 私は……

 祖父上のようにはなれぬ。

 だが、

 祖父上の光を継ぎたい」


 私は静かに頷いた。


「家光様。

 その願いは……

 必ず叶います」


「では……

 お前に任せてもよいか」


 胸の奥の澱が、

 ふっと温かく揺れた。


「もちろんでございます」


---


 だがその瞬間、

 胸の奥に微かな“古い痛み”が走った。


 比叡山の炎。

 坂本の風。

 本能寺の夜。


 それらはもう、

 私を焼くほどの熱を持ってはいない。


 ただ、

 長く抱えてきた“残り火”として

 静かに胸の底に灯っているだけだった。


 ──光秀。

 お前の旅路は、

 ここで終わるのか。


 私は目を閉じた。


 寛永寺が完成し、

 江戸の心が整い、

家光様は光を持ち始めた。


 ならば──

 私の役目は、

 もう終わりに近いのかもしれない。


---


「天海」


 家光様が私を見た。


「顔色が……

 少し悪いぞ」


「大丈夫です。

 胸の底の澱が……

 静かになってきました」


「澱、か」


 家光様は目を細めた。


「お前が抱えるものは……

 まだ消えていないのだな」


「はい。

 しかし──

 江戸が光を持てば、

 澱は沈みます」


 家光様は静かに頷いた。


「ならば、

 江戸を照らし続けよう。

 お前の重さが……

 少しでも軽くなるように」


 胸が熱くなった。


---


 夕暮れ。

 私はひとり本堂の前に立った。


 風が吹き、

 木々が揺れ、

 空はどこまでも高かった。


「……光秀」


 私は静かに呟いた。


「お前の残り火は……

 ここで静かに消えていくのかもしれぬ」


 胸の奥の余熱は、

 確かに弱まっていた。


 それは悲しみではなく、

 “成就”に近い感覚だった。


---


「天海」


 家光様が再び呼んだ。


「日光へ行く準備を進めよう。

 祖父上を……

 光として祀るために」


「承知いたしました」


 私は深く頭を下げた。


「家光様。

 その道は……

 江戸の未来を照らす道にございます」


 家光様は静かに頷いた。


「そしてお前は……

 その道を照らしてくれる灯だ」


 胸が震えた。


---


 寛永寺は完成した。

 江戸の心は整った。

 家光は光を持ち始めた。


 そして──

 天海は静かに悟った。


 **自分の役目は、

 もう終わりに近い。**


 だがその終わりは、

 悲しみではなく、

 長い旅路の果てに訪れる

 “静かな安らぎ”だった。


 江戸の風が、

 その余熱を優しく撫でていた。


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