第145話 家光の涙
天海が倒れてから半日。
寛永寺の仮小屋には、
医師と役人が慌ただしく出入りしていた。
私はその中央で、
ただ天海の手を握っていた。
天海の顔は青白く、
呼吸は浅く、
胸はわずかに上下するだけ。
あの強い天海が──
こんなにも弱く見えるとは。
胸が締めつけられた。
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「若様……」
医師が静かに言った。
「命に別状はございません。
ただ……
心の疲れが限界に達しておられます」
「心の……疲れ……」
私は呟いた。
天海は、
江戸の心を作るために動き続けてきた。
家康の遺志。
秀忠の揺らぎ。
家光の迷い。
江戸の不安。
寛永寺の建設。
そして──
誰にも言えぬ“影”。
そのすべてを、
ひとりで背負っていたのだ。
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「天海……」
私は天海の手を握りしめた。
「なぜ……
なぜ、ひとりで抱えた……」
答えは返ってこない。
だが、
天海の指先がわずかに震えた。
その震えが、
胸に刺さった。
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夕刻。
天海がようやく目を開いた。
「……家光様……」
その声は弱々しかったが、
確かに天海の声だった。
「天海……!」
私は思わず身を乗り出した。
「よかった……
本当によかった……」
天海は薄く微笑んだ。
「ご心配を……
おかけしました……」
「心配どころではない!」
声が震えた。
「お前は……
死ぬかと思った……!」
天海の目が揺れた。
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「天海。
私は……
昨夜、お前が苦しむ姿を見た」
天海は目を閉じた。
「……申し訳ございません」
「謝るな!」
私は思わず声を荒げた。
「謝るくらいなら……
最初から言え……
苦しいと……
辛いと……
助けてくれと……!」
天海は静かに首を振った。
「……私は……
影を背負う者……
家光様に……
見せてよいものでは……」
「見せてよい!」
私は叫んだ。
「お前が背負う影なら……
私はその影ごと受け止める!」
天海の目が大きく見開かれた。
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「天海。
私は……
祖父上のようにはなれぬ。
父上のようにもなれぬ」
私は天海の手を握りしめた。
「だが……
お前を支えることならできる」
天海の喉が震えた。
「……家光様……
それは……
身に余るお言葉……」
「余らぬ!」
私は涙をこらえきれなかった。
「お前は……
江戸の心を作った。
江戸を守ってくれた。
私を導いてくれた。
祖父上の遺志を継いでくれた」
涙が頬を伝った。
「だから……
今度は私の番だ……
お前を守るのは……
私だ……!」
天海は息を呑んだ。
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「家光様……
私は……
罪を背負った者……」
「罪を背負う者ほど、
光を知るのだ」
私は静かに言った。
「お前は……
影を知っている。
だからこそ、
江戸に光を与えられる」
天海の目に、
涙が浮かんだ。
「……家光様……
私は……
あなたに……
救われております……」
「救われているのは私だ」
私は天海の手を握りしめた。
「天海。
お前はひとりではない。
これからは……
私がそばにいる」
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天海はゆっくりと目を閉じた。
その表情は、
苦しみでも、
悲しみでもなく──
“安堵”だった。
「……ありがとうございます……
家光様……」
その声は、
影の奥から絞り出された
“救いの声”だった。
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私は天海の手を離さなかった。
江戸の夜風が、
静かに小屋を揺らしていた。
「天海……
私はお前をひとりにしない」
私は静かに呟いた。
「江戸のために。
そして──
お前のために」
その言葉は、
天海の影に差し込む
最初の光となった。




