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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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145/156

第145話 家光の涙

 天海が倒れてから半日。

 寛永寺の仮小屋には、

 医師と役人が慌ただしく出入りしていた。


 私はその中央で、

 ただ天海の手を握っていた。


 天海の顔は青白く、

 呼吸は浅く、

 胸はわずかに上下するだけ。


 あの強い天海が──

 こんなにも弱く見えるとは。


 胸が締めつけられた。


---


「若様……」


 医師が静かに言った。


「命に別状はございません。

 ただ……

 心の疲れが限界に達しておられます」


「心の……疲れ……」


 私は呟いた。


 天海は、

 江戸の心を作るために動き続けてきた。


 家康の遺志。

 秀忠の揺らぎ。

 家光の迷い。

 江戸の不安。

 寛永寺の建設。


 そして──

 誰にも言えぬ“影”。


 そのすべてを、

 ひとりで背負っていたのだ。


---


「天海……」


 私は天海の手を握りしめた。


「なぜ……

 なぜ、ひとりで抱えた……」


 答えは返ってこない。


 だが、

 天海の指先がわずかに震えた。


 その震えが、

 胸に刺さった。


---


 夕刻。

 天海がようやく目を開いた。


「……家光様……」


 その声は弱々しかったが、

 確かに天海の声だった。


「天海……!」


 私は思わず身を乗り出した。


「よかった……

 本当によかった……」


 天海は薄く微笑んだ。


「ご心配を……

 おかけしました……」


「心配どころではない!」


 声が震えた。


「お前は……

 死ぬかと思った……!」


 天海の目が揺れた。


---


「天海。

 私は……

 昨夜、お前が苦しむ姿を見た」


 天海は目を閉じた。


「……申し訳ございません」


「謝るな!」


 私は思わず声を荒げた。


「謝るくらいなら……

 最初から言え……

 苦しいと……

 辛いと……

 助けてくれと……!」


 天海は静かに首を振った。


「……私は……

 影を背負う者……

 家光様に……

 見せてよいものでは……」


「見せてよい!」


 私は叫んだ。


「お前が背負う影なら……

 私はその影ごと受け止める!」


 天海の目が大きく見開かれた。


---


「天海。

 私は……

 祖父上のようにはなれぬ。

 父上のようにもなれぬ」


 私は天海の手を握りしめた。


「だが……

 お前を支えることならできる」


 天海の喉が震えた。


「……家光様……

 それは……

 身に余るお言葉……」


「余らぬ!」


 私は涙をこらえきれなかった。


「お前は……

 江戸の心を作った。

 江戸を守ってくれた。

 私を導いてくれた。

 祖父上の遺志を継いでくれた」


 涙が頬を伝った。


「だから……

 今度は私の番だ……

 お前を守るのは……

 私だ……!」


 天海は息を呑んだ。


---


「家光様……

 私は……

 罪を背負った者……」


「罪を背負う者ほど、

 光を知るのだ」


 私は静かに言った。


「お前は……

 影を知っている。

 だからこそ、

 江戸に光を与えられる」


 天海の目に、

 涙が浮かんだ。


「……家光様……

 私は……

 あなたに……

 救われております……」


「救われているのは私だ」


 私は天海の手を握りしめた。


「天海。

 お前はひとりではない。

 これからは……

 私がそばにいる」


---


 天海はゆっくりと目を閉じた。


 その表情は、

 苦しみでも、

 悲しみでもなく──


 “安堵”だった。


「……ありがとうございます……

 家光様……」


 その声は、

 影の奥から絞り出された

 “救いの声”だった。


---


 私は天海の手を離さなかった。


 江戸の夜風が、

 静かに小屋を揺らしていた。


「天海……

 私はお前をひとりにしない」


 私は静かに呟いた。


「江戸のために。

 そして──

 お前のために」


 その言葉は、

 天海の影に差し込む

 最初の光となった。


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