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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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144/156

第144話 影の正体

 夜の祈りから三日。

 胸の奥のざわめきは、

 日に日に強くなっていた。


 江戸は静まり、

 寛永寺は形を成し、

 家光様は成長しつつある。


 すべてが整い始めているのに──

 私の内側だけが、

 逆に揺らぎ続けていた。


 影が疼く。

 影が囁く。

 影が、形になろうとしている。


---


 その日の午後、

 私は寛永寺の工事現場を見回っていた。


 大工たちの掛け声。

 木槌の音。

 風に揺れる木の香り。


 すべてが、

 江戸の“心”を作る音だった。


 だが──

 胸の奥の痛みは、

 その音に反比例するように強くなっていった。


「……っ」


 私は思わず胸を押さえた。


「天海様?

 どうされました!」


 役人が駆け寄ってきた。


「……問題ありません。

 少し、風に当たりすぎただけです」


 私は笑みを作ったが、

 視界がわずかに揺れた。


 影が、

 ざわめいている。


---


 夕刻。

 私は本堂の骨格の中央に立った。


 風が吹き抜け、

 木の香りが漂い、

 空は赤く染まっていた。


 その美しさが、

 逆に胸を締めつけた。


「……光秀」


 私は呟いた。


「お前は……

 何を守りたかったのだ」


 その瞬間、

 胸の奥に鋭い痛みが走った。


「……っ!」


 膝が折れた。


 視界が揺れ、

 地面が遠ざかる。


 そして──

 記憶が“鮮明な映像”として蘇った。


---


 炎。

 叫び。

 比叡山の夜。


 焼け落ちる堂塔。

 逃げ惑う僧。

 焦げた木の匂い。


 私は炎の中に立っていた。


 光秀として。


 刀を握り、

 命令を叫び、

 炎を背負っていた。


「……やめろ……!」


 声が漏れた。


 だが記憶は止まらない。


 坂本の風。

 湖面に映る炎。

 そして──

 本能寺の夜。


 信長の背中。

 燃え上がる柱。

 刀を握る自分の手。


「やめろ……!

 もう……やめてくれ……!」


 私は地面に倒れ込んだ。


 影が、

 叫んでいる。


---


「天海!」


 遠くから声が聞こえた。


 だが、

 影の叫びがそれをかき消した。


「天海!

 しっかりしろ!」


 肩を揺さぶられた。


 私はかろうじて目を開けた。


 家光様がいた。


 その顔は、

 恐怖と焦りと、

 そして深い悲しみに満ちていた。


「天海……!

 どうした……!

 何があった……!」


 私は声を出そうとしたが、

 喉が震えるだけだった。


「……か……み……つ……」


 言葉にならない。


 影が、

 胸を締めつけていた。


---


「誰か!

 医師を呼べ!」


 家光様の叫びが響いた。


 だが私は、

 その声を遠くに感じていた。


 視界が揺れ、

 音が遠ざかり、

 影が濃くなる。


 光秀の記憶が、

 次々と押し寄せる。


 比叡山。

 坂本。

 本能寺。


 そして──

 明智家の滅亡。


 母の泣き声。

 家臣の叫び。

 炎に包まれる城。


「……やめろ……

 もう……やめてくれ……」


 私は涙を流していた。


 天海としてではなく、

 光秀として。


---


「天海……!」


 家光様が私の手を握った。


「天海……

 お前は……

 何を背負っている……?」


 その声は震えていた。


 私はかろうじて言葉を絞り出した。


「……私は……

 影を……

 背負う者……」


「影……?」


「……罪を……

 背負った者……」


 家光様の目が揺れた。


「天海……

 お前は……

 ひとりで……

 そんなものを……」


 私は微笑んだ。


「……家光様……

 私は……

 大丈夫です……」


 だが、

 その言葉は嘘だった。


---


 家光様は涙を浮かべながら言った。


「天海……

 私は……

 お前をひとりにしない」


 その言葉は、

 影の中に差し込む光だった。


 私は目を閉じた。


 影が揺れ、

 光が差し込み、

 意識が遠のいていく。


 最後に聞こえたのは、

 家光様の震える声だった。


「天海……

 どうか……

 戻ってこい……」


 その声を胸に抱きながら、

 私は深い闇へと沈んでいった。


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