第144話 影の正体
夜の祈りから三日。
胸の奥のざわめきは、
日に日に強くなっていた。
江戸は静まり、
寛永寺は形を成し、
家光様は成長しつつある。
すべてが整い始めているのに──
私の内側だけが、
逆に揺らぎ続けていた。
影が疼く。
影が囁く。
影が、形になろうとしている。
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その日の午後、
私は寛永寺の工事現場を見回っていた。
大工たちの掛け声。
木槌の音。
風に揺れる木の香り。
すべてが、
江戸の“心”を作る音だった。
だが──
胸の奥の痛みは、
その音に反比例するように強くなっていった。
「……っ」
私は思わず胸を押さえた。
「天海様?
どうされました!」
役人が駆け寄ってきた。
「……問題ありません。
少し、風に当たりすぎただけです」
私は笑みを作ったが、
視界がわずかに揺れた。
影が、
ざわめいている。
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夕刻。
私は本堂の骨格の中央に立った。
風が吹き抜け、
木の香りが漂い、
空は赤く染まっていた。
その美しさが、
逆に胸を締めつけた。
「……光秀」
私は呟いた。
「お前は……
何を守りたかったのだ」
その瞬間、
胸の奥に鋭い痛みが走った。
「……っ!」
膝が折れた。
視界が揺れ、
地面が遠ざかる。
そして──
記憶が“鮮明な映像”として蘇った。
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炎。
叫び。
比叡山の夜。
焼け落ちる堂塔。
逃げ惑う僧。
焦げた木の匂い。
私は炎の中に立っていた。
光秀として。
刀を握り、
命令を叫び、
炎を背負っていた。
「……やめろ……!」
声が漏れた。
だが記憶は止まらない。
坂本の風。
湖面に映る炎。
そして──
本能寺の夜。
信長の背中。
燃え上がる柱。
刀を握る自分の手。
「やめろ……!
もう……やめてくれ……!」
私は地面に倒れ込んだ。
影が、
叫んでいる。
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「天海!」
遠くから声が聞こえた。
だが、
影の叫びがそれをかき消した。
「天海!
しっかりしろ!」
肩を揺さぶられた。
私はかろうじて目を開けた。
家光様がいた。
その顔は、
恐怖と焦りと、
そして深い悲しみに満ちていた。
「天海……!
どうした……!
何があった……!」
私は声を出そうとしたが、
喉が震えるだけだった。
「……か……み……つ……」
言葉にならない。
影が、
胸を締めつけていた。
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「誰か!
医師を呼べ!」
家光様の叫びが響いた。
だが私は、
その声を遠くに感じていた。
視界が揺れ、
音が遠ざかり、
影が濃くなる。
光秀の記憶が、
次々と押し寄せる。
比叡山。
坂本。
本能寺。
そして──
明智家の滅亡。
母の泣き声。
家臣の叫び。
炎に包まれる城。
「……やめろ……
もう……やめてくれ……」
私は涙を流していた。
天海としてではなく、
光秀として。
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「天海……!」
家光様が私の手を握った。
「天海……
お前は……
何を背負っている……?」
その声は震えていた。
私はかろうじて言葉を絞り出した。
「……私は……
影を……
背負う者……」
「影……?」
「……罪を……
背負った者……」
家光様の目が揺れた。
「天海……
お前は……
ひとりで……
そんなものを……」
私は微笑んだ。
「……家光様……
私は……
大丈夫です……」
だが、
その言葉は嘘だった。
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家光様は涙を浮かべながら言った。
「天海……
私は……
お前をひとりにしない」
その言葉は、
影の中に差し込む光だった。
私は目を閉じた。
影が揺れ、
光が差し込み、
意識が遠のいていく。
最後に聞こえたのは、
家光様の震える声だった。
「天海……
どうか……
戻ってこい……」
その声を胸に抱きながら、
私は深い闇へと沈んでいった。




