第143話 家光の決意
夜の祈りから一日。
私は江戸城の一室で、
静かに筆を走らせていた。
だが、筆先は震えていた。
昨夜の天海の姿が、
どうしても頭から離れなかった。
月明かりの中で苦しむ背中。
押し殺した声。
胸を押さえ、震える指先。
あれは──
ただの疲れではない。
天海は、
何かを抱えている。
そしてそれは、
私が想像するよりもずっと重い。
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「若様」
側近の阿部忠秋が声をかけた。
「政務の手が止まっております」
「……ああ、すまぬ」
私は筆を置いた。
「忠秋。
人は……
どれほどのものを背負えるのだろうな」
忠秋は驚いた顔をした。
「突然、どうされました」
「天海のことだ」
忠秋は静かに頷いた。
「天海様は……
多くを背負っておられますな」
「多く、ではない。
“重すぎる”のだ」
私は昨夜の光景を思い出した。
「私は……
あの人に支えられてばかりだ。
だが、
あの人は誰に支えられているのだ」
忠秋は言葉を失った。
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「忠秋。
私は……
天海を支えたい」
自分でも驚くほど、
その言葉は自然に口から出た。
「若様……
それは……
将軍家の御覚悟にございますか」
「覚悟だ」
私ははっきりと言った。
「私は祖父上のようにはなれぬ。
父上のようにもなれぬ。
だが──
天海を支えることならできる」
忠秋は深く頭を下げた。
「若様……
そのお心こそ、
将軍の器にございます」
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その日の午後、
私は寛永寺の工事現場を訪れた。
天海は、
いつものように現場の中央に立ち、
大工たちに指示を出していた。
だが、
その背中はどこか細く見えた。
「天海」
私が声をかけると、
天海は振り返った。
「家光様。
ご機嫌麗しゅうございます」
その笑みは穏やかだったが、
どこか無理をしているように見えた。
「昨夜のことだが……」
天海の表情がわずかに揺れた。
「申し訳ございません。
お見苦しいところを」
「見苦しいなどと思ったことはない」
私は一歩近づいた。
「天海。
私は……
お前が何を抱えているのか、
まだ知らぬ」
天海は目を伏せた。
「……申し訳ございません」
「だが、
お前がひとりで抱える必要はない」
天海の肩がわずかに震えた。
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「天海。
私は……
お前を支えたい」
その言葉を口にした瞬間、
天海の目が大きく見開かれた。
「家光様……
それは……」
「私は、
お前に支えられてばかりだ。
だが、
それではいかぬ」
私は続けた。
「江戸を守るためには、
お前が必要だ。
そして──
お前を守る者も必要だ」
天海は言葉を失っていた。
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「天海。
私は……
祖父上のようにはなれぬ。
だが、
お前を支えることならできる」
天海はゆっくりと目を閉じた。
その表情は、
苦しみでも、
悲しみでもなく──
“救い”に近かった。
「……家光様。
そのお言葉……
身に余ります」
「余らぬ。
必要なのだ」
私ははっきりと言った。
「お前が江戸の心を作るなら、
私はお前の心を支える」
天海は深く頭を下げた。
「……ありがたく存じます」
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その夜、
私は江戸城の天守から
江戸の町を見下ろした。
灯りが揺れ、
風が吹き、
江戸は静かに呼吸していた。
「天海……
私はお前を支える」
私は静かに呟いた。
「江戸を守るために。
そして──
お前を守るために」
その言葉は、
私自身の胸に深く刻まれた。
──家光の決意。
それは、
江戸の未来を変える
最初の一歩だった。




