第142話 夜の祈り
寛永寺の上棟から七日。
江戸の北は、昼も夜も人の声が絶えなかった。
だが──
夜の本堂だけは、別だった。
まだ屋根も壁もない骨格の中に、
風が通り抜け、
月の光が差し込む。
そこは、
まるで“空に近い祈りの場所”だった。
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私はひとり、
本堂の中央に座していた。
胸の奥のざわめきは、
日に日に強くなっていた。
江戸が整うほど、
影が疼く。
光が強くなるほど、
影もまた濃くなる。
その理を、
私は誰よりも知っていた。
──光秀。
お前は、何を求めていた。
私は静かに目を閉じた。
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祈りの言葉を唱え始めた瞬間、
胸の奥で何かが軋んだ。
そして──
記憶が“映像”として蘇った。
炎。
叫び。
比叡山の夜。
焼け落ちる堂塔。
逃げ惑う僧。
焦げた木の匂い。
私は思わず息を呑んだ。
「……やめろ」
声が漏れた。
だが記憶は止まらない。
坂本の風。
湖面に映る炎。
そして──
本能寺の夜。
信長の背中。
燃え上がる柱。
刀を握る自分の手。
「……やめろ……!」
私は胸を押さえた。
影が、
叫んでいる。
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「天海」
突然、背後から声がした。
私は振り返った。
家光様が立っていた。
月明かりに照らされたその顔は、
驚きと、
そして深い心配に満ちていた。
「天海……
今の声は……?」
私は息を整えた。
「……失礼いたしました。
少し、祈りが深くなりすぎました」
「嘘だ」
家光様の声は静かだった。
「天海。
お前は……
何かを抱えている」
胸が揺れた。
「私は……
江戸のために祈っていただけです」
「違う」
家光様は一歩近づいた。
「祈りではない。
苦しんでいた」
その言葉は、
胸の奥に突き刺さった。
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「天海。
私は……
お前が何を背負っているのか、
まだ知らぬ」
家光様は続けた。
「だが、
お前がひとりで抱える必要はない」
私は目を閉じた。
──家光様。
あなたはまだ若い。
この影を見せるには、早すぎる。
「……ありがとうございます。
しかし、
これは私の問題です」
「違う」
家光様の声が震えた。
「江戸を支える者が苦しんでいるなら、
それは江戸の問題だ」
胸の奥が熱くなった。
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「天海。
私は……
祖父上のようにはなれぬ。
だが、
お前を支えたい」
その言葉は、
天海としてではなく、
光秀としての私の胸に響いた。
支えられるなど、
思ってもみなかった。
光秀は孤独だった。
天海もまた孤独だった。
だが──
家光様は違った。
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「家光様……
私は……」
言いかけて、
言葉が喉で止まった。
影が、
ざわめいた。
──言うな。
──まだ早い。
胸の奥で、
光秀の影が警告していた。
私は静かに頭を下げた。
「……申し訳ございません。
今はまだ、
申し上げられません」
家光様はしばらく黙り、
やがて静かに言った。
「わかった。
だが、
その時が来たら……
必ず私に話せ」
私は深く頷いた。
「承知しました」
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家光様が去った後、
私は再び本堂の中央に座った。
月の光が差し込み、
風が静かに通り抜ける。
だが胸の奥では、
影がざわめき続けていた。
「……光秀。
お前は、
何を守りたかったのだ」
その問いだけが、
夜の祈りに溶けていった。




