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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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142/156

第142話 夜の祈り

 寛永寺の上棟から七日。

 江戸の北は、昼も夜も人の声が絶えなかった。


 だが──

 夜の本堂だけは、別だった。


 まだ屋根も壁もない骨格の中に、

 風が通り抜け、

 月の光が差し込む。


 そこは、

 まるで“空に近い祈りの場所”だった。


---


 私はひとり、

 本堂の中央に座していた。


 胸の奥のざわめきは、

 日に日に強くなっていた。


 江戸が整うほど、

 影が疼く。


 光が強くなるほど、

 影もまた濃くなる。


 その理を、

 私は誰よりも知っていた。


 ──光秀。

 お前は、何を求めていた。


 私は静かに目を閉じた。


---


 祈りの言葉を唱え始めた瞬間、

 胸の奥で何かが軋んだ。


 そして──

 記憶が“映像”として蘇った。


 炎。

 叫び。

 比叡山の夜。


 焼け落ちる堂塔。

 逃げ惑う僧。

 焦げた木の匂い。


 私は思わず息を呑んだ。


「……やめろ」


 声が漏れた。


 だが記憶は止まらない。


 坂本の風。

 湖面に映る炎。

 そして──

 本能寺の夜。


 信長の背中。

 燃え上がる柱。

 刀を握る自分の手。


「……やめろ……!」


 私は胸を押さえた。


 影が、

 叫んでいる。


---


「天海」


 突然、背後から声がした。


 私は振り返った。


 家光様が立っていた。


 月明かりに照らされたその顔は、

 驚きと、

 そして深い心配に満ちていた。


「天海……

 今の声は……?」


 私は息を整えた。


「……失礼いたしました。

 少し、祈りが深くなりすぎました」


「嘘だ」


 家光様の声は静かだった。


「天海。

 お前は……

 何かを抱えている」


 胸が揺れた。


「私は……

 江戸のために祈っていただけです」


「違う」


 家光様は一歩近づいた。


「祈りではない。

 苦しんでいた」


 その言葉は、

 胸の奥に突き刺さった。


---


「天海。

 私は……

 お前が何を背負っているのか、

 まだ知らぬ」


 家光様は続けた。


「だが、

 お前がひとりで抱える必要はない」


 私は目を閉じた。


 ──家光様。

 あなたはまだ若い。

 この影を見せるには、早すぎる。


「……ありがとうございます。

 しかし、

 これは私の問題です」


「違う」


 家光様の声が震えた。


「江戸を支える者が苦しんでいるなら、

 それは江戸の問題だ」


 胸の奥が熱くなった。


---


「天海。

 私は……

 祖父上のようにはなれぬ。

 だが、

 お前を支えたい」


 その言葉は、

 天海としてではなく、

 光秀としての私の胸に響いた。


 支えられるなど、

 思ってもみなかった。


 光秀は孤独だった。

 天海もまた孤独だった。


 だが──

 家光様は違った。


---


「家光様……

 私は……」


 言いかけて、

 言葉が喉で止まった。


 影が、

 ざわめいた。


 ──言うな。

 ──まだ早い。


 胸の奥で、

 光秀の影が警告していた。


 私は静かに頭を下げた。


「……申し訳ございません。

 今はまだ、

 申し上げられません」


 家光様はしばらく黙り、

 やがて静かに言った。


「わかった。

 だが、

 その時が来たら……

 必ず私に話せ」


 私は深く頷いた。


「承知しました」


---


 家光様が去った後、

 私は再び本堂の中央に座った。


 月の光が差し込み、

 風が静かに通り抜ける。


 だが胸の奥では、

 影がざわめき続けていた。


「……光秀。

 お前は、

 何を守りたかったのだ」


 その問いだけが、

 夜の祈りに溶けていった。


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