第141話 影のざわめき
寛永寺の上棟から三日。
江戸の北には、まだ祝いの余韻が残っていた。
町人たちは口々に言う。
「北から良い風が吹くな」
「なんだか、心が落ち着く」
「江戸が変わるぞ」
江戸は確かに静まり始めていた。
治安も、町の空気も、
まるで“心”が整ったかのように。
だが──
私の胸の奥では、
逆に“ざわめき”が強くなっていた。
光秀の影が、
静かに、しかし確かに疼いていた。
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「天海様!」
役人が駆け寄ってきた。
「北町での騒ぎが、
ここ数日ほとんどありません。
まるで……
町が落ち着いたようで」
「寛永寺の“気”が流れ始めたのでしょう」
私は答えたが、
胸の奥のざわめきは消えなかった。
江戸が整うほど、
影が濃くなる。
──光が強くなれば、影もまた濃くなる。
その理を、
私は誰よりも知っていた。
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その日の午後、
家光様が私を訪ねてきた。
「天海。
町が静かになってきたと聞いた」
「はい。
江戸は今、
“心”を得つつあります」
家光様は頷いた。
「……だが、
お前の顔色が良くない」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「いえ。
少し疲れが出ただけです」
「嘘だな」
家光様の声は静かだったが、
その奥に強い意志があった。
「天海。
私は……
お前が何かを抱えていることに気づいている」
胸の奥が揺れた。
「だが、
まだ聞くべき時ではないのだろう」
家光様は続けた。
「だから今は、
ただ“そばにいる”」
その言葉は、
胸の奥に静かに染み込んだ。
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夕暮れ、
私はひとり寛永寺の丘に立った。
風が吹き、
草が揺れ、
空はどこまでも高かった。
だが──
胸の奥のざわめきは止まらなかった。
影が、
ざわめいている。
光秀としての記憶が、
断片的に蘇る。
──比叡山の炎。
──坂本の風。
──本能寺の夜。
私は目を閉じた。
「……光秀。
お前は、
何を求めていたのだ」
影は答えない。
だが、
影は確かに疼いていた。
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「天海」
背後から声がした。
家光様だった。
「こんな時間に……
どうした」
「家光様こそ」
「……眠れなかった」
家光様は私の隣に立ち、
工事の灯りを見下ろした。
「天海。
私は……
祖父上のようにはなれぬ。
だが、
江戸を守りたい」
「守れます。
家光様の光は、
必ず江戸を導きます」
家光様は小さく頷いた。
「……ならよい。
私は、
江戸のために生きたい」
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私は北の空を見上げた。
「家康殿……
江戸は静まり始めました。
そして家光様も……
光を持ち始めています」
私は静かに呟いた。
「私は……
江戸の心を作ります。
そして、
家光様の光を育てます」
だが胸の奥では、
光秀の影が静かにざわめいていた。
──お前は、
何を守りたかったのか。
その問いだけが、
夜風に溶けていった。




