第14話 影の誘い
男が去ったあとも、風はしばらく落ち着かなかった。
木々の葉がざわめき、まるで何かが通り過ぎた余韻だけが残っているようだった。
──影を呼ぶ声。
宗易として歩き始めてから、私は常に“見られている”感覚に敏感になっていた。
だが、先ほどの男の気配は、ただの監視ではない。
“選別”に近いものだった。
私は木札を受け取らなかった。
だが、あの葵の紋は、確かに私の胸に影を落とした。
家康──
あの男が動いているのは、もはや噂ではなく、確かな現実だ。
私は歩き出した。
東の空は薄曇りで、光は弱い。
だが、その曇り空の下に、何か大きなものが蠢いている気配があった。
しばらく歩くと、道の先に古い寺が見えた。
山門は傾き、苔むした石段には落ち葉が積もっている。
だが、寺の前には馬が一頭つながれていた。
──誰かいる。
私は慎重に山門をくぐった。
本堂の前に、黒い直垂をまとった男が立っていた。
背は高く、姿勢は揺るぎない。
だが、腰には刀を帯びていない。
武士ではない。
だが、武士以上の緊張感をまとっている。
男は振り返り、私を見た。
「……宗易殿」
私は息を呑んだ。
「なぜ、私の名を」
「探しておりました。
あなたに、伝えるべきことがある」
声は低く、よく通る。
だが、敵意はない。
むしろ、私を“待っていた”ような響きがあった。
「先ほどの者の使いか」
「いいえ。
あれは“呼び水”にすぎません。
本当にあなたを必要としているのは──別の御方です」
私は静かに息を吸った。
「……家康か」
男は答えなかった。
だが、その沈黙が肯定だった。
「宗易殿。
あなたは“死んだ名”を捨てた。
ならば、影として生きる道を選んだのでしょう」
「選んだつもりはない」
「選ばれたのです」
その言葉は、胸の奥に深く刺さった。
男は本堂の方へ歩き、扉を開けた。
中には誰もいない。
だが、香の匂いがかすかに残っている。
「ここで、ある者があなたを待っておりました。
だが、宗易殿が来る前に、急ぎ東へ向かわれた」
「誰だ」
「名は申し上げられません。
ただ──その御方は、あなたが“生きている”と知っておられる」
私は言葉を失った。
光秀としての死は、世に広まっている。
だが、わずかな揺らぎを拾い上げ、
その揺らぎの先にいる“影”を探し当てる者がいる。
男は続けた。
「宗易殿。
あなたに、ひとつだけ伝言を預かっております」
私は息を呑んだ。
「……伝言?」
「“影は、光を選ばぬ。
だが、光は影を必要とする時がある”」
その言葉は、胸の奥で静かに響いた。
──影は、光を選ばぬ。
だが、光が影を求める時がある。
それは、光秀としての私が最も理解していることだった。
主君を持たぬ者は、影にもなれぬ。
だが、主君を選ばぬ影は、時に光を導く。
男は私の前に立ち、深く頭を下げた。
「宗易殿。
あなたに“最初の道”を示すよう命じられております」
「道……?」
「東国へ向かう途中、ある村で“火”が起きます。
その火は、ただの火事ではない。
歴史のうねりの前触れです」
私は眉をひそめた。
「火……?」
「その火を見届けよ、と。
あなたが影として歩むなら、
その火の中に、あなたの“次の名”が見えるはずです」
私は言葉を失った。
──次の名。
僧が言った言葉が、再び胸に蘇る。
男は馬に乗り、手綱を引いた。
「宗易殿。
影の道は、あなたを待っております」
そう言い残し、男は寺を後にした。
私はしばらくその場に立ち尽くした。
寺の静けさが、逆に胸をざわつかせる。
──火。
東国で起きる火。
それは、ただの災いではない。
歴史のうねりの前触れ。
私は懐の黒い布を握りしめた。
その黒は、曇り空の下でも深く沈んでいる。
宗易としての旅は、
ただの逃亡でも、漂泊でもない。
──影としての最初の任務が、始まろうとしている。
私は静かに歩き出した。
東の空の向こうに、まだ見ぬ火の色が揺れている気がした。




