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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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第139話 整う気、揺らぐ影

 寛永寺の工事が始まって三月。

 江戸の北は、もはや“工事現場”ではなかった。


 柱が立ち並び、

 回廊の骨組みが姿を現し、

 屋根の形すら見え始めていた。


 風が吹けば木の香りが広がり、

 土の匂いが混じり、

 人々の声が重なって響く。


 ──都が、呼吸を始めている。


 私はその光景を見下ろしながら、

 胸の奥に静かな熱を感じていた。


---


「天海様!」


 役人が駆け寄ってきた。


「本堂の梁がすべて組み上がりました!

 予定よりも早い進みでございます!」


「よい兆しです。

 “気”が整い始めています」


 役人は首を傾げた。


「気……でございますか?」


「はい。

 都とは、

 “気”が通って初めて安定します。

 江戸は今、

 ようやく心を持ち始めたのです」


 役人は深く頷いた。


---


 その時、背後から声がした。


「天海」


 振り向くと、

 家光様が立っていた。


 以前よりも、

 少しだけ表情が引き締まっている。


「工事の様子を見に来た。

 ……本当に、形になってきたのだな」


「はい。

 江戸の心が、

 ゆっくりと立ち上がりつつあります」


 家光様は本堂の骨格を見上げた。


「……不思議だな。

 まだ完成していないのに、

 町が静かになっていく」


「形よりも、

 “気”が先に動くのです」


---


「天海」


 家光様は静かに言った。


「私は……

 祖父上のようにはなれぬ。

 だが、

 江戸を守りたい」


「守れます。

 家光様の光は、

 必ず江戸を導きます」


 家光様は小さく息を吐いた。


「……ならよい。

 私は、

 江戸のために生きたい」


 その言葉は、

 家光様の“自発的な決意”が

 さらに深まった証だった。


---


 その時、

 工事現場の方から怒号が聞こえた。


「おい!

 そこは危ない、下がれ!」


「梁が揺れているぞ!

 支えろ、急げ!」


 私はすぐに駆け寄った。


 巨大な梁が、

 風に煽られてわずかに揺れていた。


「天海様!

 このままでは……!」


 私は梁に手を当てた。


 ──揺れている。

 だが、折れてはいない。


「……問題ありません」


「しかし……!」


「揺らぎは、

 “気”が整う前の兆しです」


 役人たちは戸惑ったが、

 私の言葉に逆らう者はいなかった。


---


 家光様が近づいてきた。


「天海……

 本当に大丈夫なのか」


「大丈夫です。

 揺らぎは、

 都が“形を持とうとしている”証です」


 家光様は静かに頷いた。


「……わかった。

 続けよ」


---


 工事が再開され、

 梁が再び支えられた。


 その音は、

 まるで江戸の心臓が

 ゆっくりと鼓動を始めたようだった。


 ドン……

 ドン……

 ドン……


 その響きが、

 胸の奥に染み込んだ。


 ──光秀。

 お前は山を焼いた。


 胸の奥で、

 影が強く疼いた。


 ──だが天海として、

 山を育てる。


 私は静かに目を閉じた。


 だがその瞬間、

 胸の奥に鋭い痛みが走った。


 まるで、

 光秀の影が“叫んでいる”ようだった。


---


 その夜、

 私はひとり寛永寺の丘に戻った。


 工事の灯りが揺れ、

 風が草を撫で、

 空はどこまでも高かった。


 だが──

 胸の奥の痛みは消えなかった。


「……光秀。

 お前は、

 何を守りたかったのだ」


 私は自問した。


 信長を討ったあの日。

 天下を望んだのか。

 正義を望んだのか。

 それとも──

 ただ、迷っていたのか。


 答えは出ない。


 だが、

 影は確かに疼いていた。


 そして今夜は、

 その疼きがいつもより強かった。


---


「天海」


 背後から声がした。


 振り向くと、

 家光様が立っていた。


「こんな時間に……

 どうした」


「家光様こそ」


「……眠れなかった」


 家光様は丘に並んで立ち、

 工事の灯りを見下ろした。


「天海。

 私は……

 江戸を守りたい」


「守れます。

 家光様の光は、

 必ず江戸を導きます」


 家光様は小さく頷いた。


「……ならよい。

 私は、

 江戸のために生きたい」


---


 私は北の空を見上げた。


「家康殿……

 江戸は整い始めました。

 そして家光様も……

 光を持ち始めています」


 私は静かに呟いた。


「私は……

 江戸の心を作ります。

 そして、

 家光様の光を育てます」


 だが胸の奥では、

 光秀の影が静かに疼いていた。


 ──お前は、

 何を守りたかったのか。


 その問いだけが、

 夜風に溶けていった。


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