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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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138/156

第138話 静まる町、疼く影

 寛永寺の工事が本格化してから二月。

 江戸の北に立ち上がった柱と足場は、

 もはや“寺の骨格”と呼べるほどの姿になっていた。


 その変化は、

 江戸の空気そのものを変え始めていた。


---


「最近、町の騒ぎが減ったな」


「家康公を祀る寺が建つと聞いて、

 皆、心が落ち着いてきたらしい」


「北の方から、

 なんだか“良い風”が吹くんだよ」


 町人たちの声が耳に入る。


 江戸は──

 静まり始めていた。


 治安が良くなったわけではない。

 政治が変わったわけでもない。


 ただ、

 “心の拠り所”が生まれつつあるだけで、

 人はこんなにも変わるのか。


 私はその事実に、

 深い驚きを覚えていた。


---


「天海様!」


 北町奉行の与力が駆け寄ってきた。


「ここ数日、

 喧嘩沙汰や盗みが減っております。

 まるで……

 町が落ち着いてきたようで」


「寛永寺の影響でしょう」


「寺が……

 町を静めるのですか?」


「はい。

 都とは“心”で動くもの。

 心が整えば、

 人の行いも整います」


 与力は感嘆の息を漏らした。


「……天海様は、

 本当に“都の医者”のようなお方だ」


 私は微笑んだ。


「医者ではありません。

 ただ、

 気の流れを見ているだけです」


---


 その時、背後から声がした。


「天海」


 振り向くと、

 家光様が立っていた。


 以前よりも、

 少しだけ姿勢が伸びている。


「町が静かになってきたと聞いた。

 本当か」


「はい。

 寛永寺の“気”が江戸に流れ始めています」


 家光様は北の空を見上げた。


「……不思議だな。

 まだ寺は完成していないのに、

 町が変わるとは」


「形よりも、

 “気”が先に動くのです」


---


「天海」


 家光様は静かに言った。


「私は……

 祖父上のようにはなれぬ。

 だが、

 江戸を守りたい」


「守れます。

 家光様の光は、

 必ず江戸を導きます」


 家光様は小さく息を吐いた。


「……ならよい。

 私は、

 江戸のために生きたい」


 その言葉は、

 家光様の“自発的な決意”が

 さらに深まった証だった。


---


 その夜、

 私はひとり寛永寺の丘に戻った。


 工事の灯りが揺れ、

 風が草を撫で、

 空はどこまでも高かった。


 だが──

 胸の奥に、

 またあの痛みがあった。


 光秀としての影が、

 静かに疼いていた。


「……光秀。

 お前は、

 何を守りたかったのだ」


 私は自問した。


 信長を討ったあの日。

 天下を望んだのか。

 正義を望んだのか。

 それとも──

 ただ、迷っていたのか。


 答えは出ない。


 だが、

 影は確かに疼いていた。


---


 その時、

 背後から足音がした。


「天海」


 家光様だった。


「こんな時間に……

 どうした」


「家光様こそ」


「……眠れなかった」


 家光様は丘に並んで立ち、

 工事の灯りを見下ろした。


「天海。

 私は……

 祖父上のようにはなれぬ。

 だが、

 江戸を守りたい」


「守れます。

 家光様の光は、

 必ず江戸を導きます」


 家光様は小さく頷いた。


「……ならよい。

 私は、

 江戸のために生きたい」


---


 私は北の空を見上げた。


「家康殿……

 江戸は静まり始めました。

 そして家光様も……

 光を持ち始めています」


 私は静かに呟いた。


「私は……

 江戸の心を作ります。

 そして、

 家光様の光を育てます」


 だが胸の奥では、

 光秀の影が静かに疼いていた。


 ──お前は、

 何を守りたかったのか。


 その問いだけが、

 夜風に溶けていった。


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