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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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137/156

第137話 影の疼き

 寛永寺の工事が本格的に始まってから一月。

 江戸の北は、もはや“荒れ地”ではなかった。


 足場が組まれ、

 柱が立ち並び、

 大工たちの掛け声が響き、

 土の匂いが風に混じる。


 江戸の空気そのものが、

 ゆっくりと変わり始めていた。


 ──都が、呼吸を始めた。


---


「天海様、こちらが回廊の基礎でございます」


 役人が地図を広げた。


「湿地の名残はありますが、

 杭を深く打てば問題ございません」


「よい。

 回廊は“気”を巡らせる道。

 都の心臓の血管のようなものです」


 役人は首を傾げたが、

 私の言葉に逆らう者はいなかった。


 家康殿の遺志。

 家光様の信頼。

 そして江戸の未来。


 その三つが、

 私の背中を押していた。


---


 その時、背後から声がした。


「天海」


 振り向くと、

 家光様が立っていた。


 以前よりも、

 少しだけ表情が引き締まっている。


「工事の様子を見に来た。

 ……本当に、形になってきたのだな」


「はい。

 江戸の心が、

 ゆっくりと立ち上がりつつあります」


 家光様は柱を見つめた。


「……不思議だな。

 ただの木の柱なのに、

 何か“力”を感じる」


「それが“気”です」


---


「天海。

 私は……

 まだ弱い」


 家光様は静かに言った。


「だが、

 この寺が建つ頃には……

 少しは強くなれるだろうか」


「なれます。

 家光様の光は、

 必ず江戸を照らします」


 家光様は小さく息を吐いた。


「……ならよい。

 私は、

 祖父上の光を継ぎたい」


「継げます。

 そして──

 家光様自身の光も生まれます」


---


 その時、

 工事現場の方から怒号が聞こえた。


「おい!

 そこは危ない、下がれ!」


「柱が傾いているぞ!

 支えろ、急げ!」


 私はすぐに駆け寄った。


 一本の柱が、

 湿地の名残でわずかに沈み込んでいた。


「天海様!

 このままでは……!」


 私は柱に手を当てた。


 ──揺れている。

だが、折れてはいない。


「……問題ありません」


「しかし……!」


「揺らぎは、

 “気”が流れ始めた証です」


 役人たちは戸惑ったが、

 私の言葉に逆らう者はいなかった。


---


 家光様が近づいてきた。


「天海……

 本当に大丈夫なのか」


「大丈夫です。

 揺らぎは、

 都が“生まれようとしている”証です」


 家光様は静かに頷いた。


「……わかった。

 続けよ」


---


 工事が再開され、

 柱が再び支えられた。


 その音は、

 まるで江戸の心臓が

 ゆっくりと鼓動を始めたようだった。


 ドン……

 ドン……

 ドン……


 その響きが、

 胸の奥に染み込んだ。


 ──光秀。

 お前は山を焼いた。


 胸の奥で、

 ふっと影が疼いた。


 ──だが天海として、

 山を育てる。


 私は静かに目を閉じた。


---


 その夜、

 私はひとり寛永寺の丘に戻った。


 風が吹き、

 草が揺れ、

 空はどこまでも高かった。


 だが──

 胸の奥に、

 小さな痛みがあった。


「……光秀。

 お前は、

 何を求めていたのだ」


 私は自問した。


 信長を討ったあの日。

 天下を望んだのか。

 正義を望んだのか。

 それとも──

 ただ、迷っていたのか。


 答えは出ない。


 だが、

 影は確かに疼いていた。


---


「天海」


 背後から声がした。


 振り向くと、

 家光様が立っていた。


「こんな時間に……

 どうした」


「家光様こそ」


「……眠れなかった」


 家光様は丘に並んで立ち、

 工事の灯りを見下ろした。


「天海。

 私は……

 祖父上のようにはなれぬ。

 だが、

 江戸を守りたい」


「守れます。

 家光様の光は、

 必ず江戸を導きます」


 家光様は小さく頷いた。


「……ならよい。

 私は、

 江戸のために生きたい」


 その言葉は、

 家光様の“初めての自発的な決意”だった。


---


 私は北の空を見上げた。


「家康殿……

 江戸は動き始めました。

 そして家光様も……

 光を持ち始めています」


 私は静かに呟いた。


「私は……

 江戸の心を作ります。

 そして、

 家光様の光を育てます」


 だが胸の奥では、

 光秀の影が静かに疼いていた。


 ──お前は、

 何を守りたかったのか。


 その問いだけが、

 夜風に溶けていった。


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