第131話 揺れる治世
家康殿が旅立ってから十日。
江戸の空は、どこか落ち着かない色をしていた。
晴れているのに、重い。
風が吹いているのに、ざわつく。
江戸は──
“新しい時代の重さ”を受け止めきれずにいた。
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その朝、
私は秀忠様の御前に呼ばれた。
「天海。
江戸の様子はどうだ」
「揺れております。
家康殿という柱を失い、
人々の心が不安定になっております」
秀忠様は深く息を吐いた。
「……父上は偉大だった。
あまりにもな」
その言葉には、
将軍でありながら“息子”としての弱さが滲んでいた。
「天海。
わしは……
父上のようにはなれぬ」
「秀忠様。
家康殿のようになる必要はございません」
「だが……
父上の影は大きい」
秀忠様は続けた。
「そして……
家光も揺れている」
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家光様。
家康殿の死後、
彼は急速に“揺らぎ”を見せていた。
強くなろうとする。
だが、強くなりきれない。
その揺らぎは、
かつての光秀の揺らぎに似ていた。
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「天海」
秀忠様が静かに言った。
「家光を……
支えてやってくれ」
「承知しました」
「家光は……
弱い。
だが、弱い者は強くなる。
父上もそう言っていた」
秀忠様は目を閉じた。
「わしは……
家光に“時代”を渡したい。
だが……
まだ渡せぬ」
その言葉は、
父としての葛藤だった。
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その日の午後、
私は家光様の部屋を訪れた。
家光様は、
机に向かっていた。
だが筆は進んでいなかった。
「天海……」
「どうされましたか」
「私は……
祖父上がいなくなってから、
何をしても“正しい”気がしない」
家光様は拳を握りしめた。
「祖父上ならどうしたか。
父上ならどうするか。
そればかり考えてしまう」
その言葉は、
かつての光秀の声に重なった。
──信長ならどうしたか。
──自分はどうすべきか。
その迷いが、
光秀を破滅へ導いた。
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「家光様。
あなたは、
家康殿にも秀忠様にもなれません」
家光様は驚いた。
「だがそれでよいのです。
あなたは“家光”なのですから」
「……家光として?」
「はい。
あなたには、
あなたにしかない光があります」
家光様は俯いた。
「私は……
弱い」
「弱さを知る者が、
強くなります」
その言葉に、
家光様の肩がわずかに震えた。
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「天海……
私は……
江戸を守れるだろうか」
「守れます。
ただし──
ひとりでは守れません」
「……?」
「江戸には“心”が必要です。
そしてその心は、
北に置かれます」
家光様は息を呑んだ。
「寛永寺……
祖父上を祀る寺か」
「はい。
江戸の魂を支える柱となります」
家光様はゆっくりと頷いた。
「天海……
私は……
あなたを頼りにしてもよいか」
「もちろんです」
その瞬間、
家光様の目に小さな光が宿った。
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その夜、
私は江戸城の天守から
江戸の町を見下ろした。
灯りが揺れていた。
人々の心が揺れているように見えた。
「……江戸よ。
お前はまだ幼い」
私は静かに呟いた。
「だが、
必ず大きくなる」
家康殿が託した泰平。
秀忠様の揺らぎ。
家光様の弱さと光。
そのすべてを抱えて、
江戸は新しい時代へ進む。
「そして私は……
お前の“心”を作る」
江戸の空に、
新しい時代の光が
静かに滲み始めていた。




