第13話 影を呼ぶ声
東へ向かう道を歩いているときだった。
風が止み、空気がわずかに重くなった。
季節の変わり目に似た、あの独特の気配──
だが、これは天候の変化ではない。
──誰かが、こちらを見ている。
宗易として歩き始めてから、こうした感覚は何度かあった。
だが、今のそれは明らかに違う。
視線ではなく、“意図”がある。
私は足を止め、周囲を見渡した。
道は静かで、鳥の声すら聞こえない。
だが、風の流れが不自然に曲がっている。
そのとき、背後から声がした。
「……宗易殿」
私は振り返った。
灰色の衣をまとった男が立っていた。
僧ではない。
武士でもない。
だが、ただ者ではない気配があった。
「どなたか」
「名乗るほどの者ではございません。
ただ──あなたを探していた者です」
私は胸の奥がわずかにざわついた。
「探していた、とは」
「宗易殿。
あなたは“死んだはずの方”ではありませんか」
その言葉に、空気が凍った。
男は続けた。
「ご安心を。
私はあなたを追う者ではない。
むしろ──あなたに会いたい者の使いです」
私は静かに息を吸った。
「……誰の使いだ」
男は答えなかった。
代わりに、懐から小さな木札を取り出した。
それは、見覚えのある形だった。
──三つ葉葵。
家康の家紋。
私は思わず一歩後ずさった。
「待て。
私は、何者でもない。
ただの流れ者だ」
「ええ。
“宗易”という名の、ただの旅人。
それでよいのです」
男は穏やかに微笑んだ。
「ですが──
あなたが“影として生きる道”を選んだのなら、
その影を必要とする者がいる」
私は言葉を失った。
男は木札を私に差し出した。
「宗易殿。
東国では、すでに大きなうねりが始まっています。
その渦の中心にいる御方が、あなたに興味を持っておられる」
「……家康か」
男は肯定も否定もしなかった。
ただ、静かに言った。
「宗易殿。
あなたは“死んだ名”を捨てた。
ならば、次の名を得る時が来る」
私は木札を見つめた。
葵の紋が、朝の光を受けてわずかに輝いている。
「……私は、何者でもない」
「だからこそ、よいのです。
名を捨てた者は、名を持つ者より自由。
影は、光よりも遠くへ届く」
男は一歩近づき、声を潜めた。
「宗易殿。
“影の道”は、あなたを呼んでいる」
その言葉は、胸の奥に深く刺さった。
私は木札を受け取らなかった。
だが、男は無理に押しつけようとはしなかった。
「いずれ、またお会いしましょう。
そのとき、あなたがどの名で立っているか──
楽しみにしております」
男はそう言い、道の向こうへ歩き去った。
風が再び吹き、空気が軽くなった。
私はしばらくその場に立ち尽くした。
──影が、呼ばれている。
宗易として歩き始めたばかりの私に、
すでに“誰か”が手を伸ばしている。
家康か。
あるいは、別の誰かか。
だが、確かなことが一つあった。
──私は、もう孤独ではない。
影は、光に寄り添うものではない。
だが、影を必要とする者がいるのなら──
その者のために歩くことも、影の道なのだろう。
私は静かに歩き出した。
東の空が、わずかに明るくなり始めていた。




