第129話 江戸の空
駿府から江戸へ戻る道のりは、
いつもより長く感じられた。
家康殿はもういない。
その事実が、
空気を重くしていた。
江戸に入ると、
町のざわめきが耳に飛び込んできた。
「家康公が……亡くなられたと……」
「これから江戸はどうなるんだ……?」
「秀忠様はしっかりしておられるが……
家光様は……」
人々の声は、
不安と期待が入り混じっていた。
江戸は揺れていた。
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江戸城に戻ると、
秀忠様が私を待っていた。
「天海。
父上は……」
「はい。
静かに旅立たれました」
秀忠様は目を閉じた。
「……そうか」
その横で、
家光様が立っていた。
その顔は、
これまでにないほど強張っていた。
「天海……
祖父上は……
本当に……?」
「はい。
家康殿は、
あなたに“光を持て”と仰いました」
家光様は唇を噛んだ。
「私は……
まだ何もできていない」
「家光様。
それでよいのです」
「よくない!」
家光様の声が震えた。
「祖父上がいなくなった今……
私は……
どうすればいい……?」
その問いは、
かつての光秀の声に重なった。
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「家光様。
江戸は揺れています」
「……わかっている」
「揺れを整えるのは、
あなたです」
家光様は目を見開いた。
「私が……?」
「はい。
家康殿は、
あなたが“時代を続ける光”になると
信じておられました」
家光様は俯いた。
「私は……
弱い」
「弱さを知る者が、
強くなります」
その言葉に、
家光様の肩がわずかに震えた。
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その時、
城内に緊張した声が響いた。
「天海様!
江戸北部で騒ぎが起きております!
家康公の死を聞きつけた者たちが、
不安から集まり……
治安が乱れ始めております!」
家光様の顔が青ざめた。
「……もう、揺れが……」
私は静かに頷いた。
「家光様。
江戸は“心”を失いました。
だから揺れるのです」
「心……」
「はい。
その心を整えるのが、
これからの私の役目です」
家光様は私を見た。
「天海……
私は……
どうすればいい」
「立ってください」
家光様は息を呑んだ。
「立つ……?」
「はい。
家康殿がいなくなった今、
あなたが立たねば、
江戸は倒れます」
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家光様は震える足で立ち上がった。
その姿は、
まだ頼りない。
だが──
確かに“将軍”だった。
「天海……
私は……
江戸を守れるだろうか」
「守れます。
あなたには、
あなたにしかない光があります」
家光様は小さく頷いた。
「……わかった。
天海。
私を導いてくれ」
「承知しました」
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私は江戸城を出て、
北の空を見上げた。
そこには、
まだ何もない。
だが──
確かに“心”が必要とされていた。
「家康殿……
あなたが去った江戸は、
揺れています」
私は静かに呟いた。
「だから私は……
江戸に“心”を置きます」
その言葉は、
天海としての決意であり、
光秀としての贖罪でもあった。
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江戸の空は、
どこまでも高かった。
その空の下で、
天海と家光の“二人の時代”が
静かに始まろうとしていた。




