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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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128/156

第128話 東照

 駿府の朝は、

 まるで世界が息を潜めているかのように静かだった。


 その静けさの中で、

 私は家康殿の寝所へ向かった。


 ──今朝が、最後だ。


 誰も口にはしないが、

 皆がそう感じていた。


---


 襖を開けると、

 家康殿は静かに横たわっていた。


 呼吸は細く、

 胸の上下はわずか。


 だがその顔は、

 不思議なほど穏やかだった。


「……天海か」


「はい。

 家康殿」


 家康殿は微笑んだ。


「来てくれたか。

 最後に……

 お前の顔を見たかった」


 その言葉は、

 胸の奥に深く落ちた。


---


「天海。

 わしは……

 もう行く」


 その声は、

 風のように薄かった。


「家康殿……」


「よい。

 死は怖くない。

 わしは十分に生きた」


 家康殿はゆっくりと目を閉じた。


「だがな……

 “残すもの”がある」


「泰平、でございますね」


「うむ。

 泰平は脆い。

 人の心は揺らぐ。

 だから……

 祈りの柱が必要だ」


 家康殿は、

 私の手を握った。


「天海。

 わしを……

 “東照大権現”として祀れ」


 その言葉は、

 家康殿の人生の最後の“願い”だった。


---


「天海。

 わしは……

 お前に託す」


「承知しました」


「お前は……

 影を背負って生きてきた」


 胸が揺れた。


「だが影を知る者ほど、

 光を作れる」


 家康殿は続けた。


「天海。

 お前は……

 わしの光だ」


 その言葉は、

 光秀としての罪を抱えた胸に

 静かに染み込んだ。


---


 その時、

 家光様が駆け込んできた。


「祖父上!」


 家康殿は目を開け、

 家光様を見た。


「家光……

 来たか」


「祖父上……

 私は……

 あなたのようにはなれません」


「なれぬ。

 だがそれでよい」


 家康殿は微笑んだ。


「お前は……

 お前の光を持て」


 家光様の目に涙が浮かんだ。


「祖父上……

 私は……

 弱いのです」


「弱さを知る者が、

 強くなる」


 家康殿は続けた。


「そして家光。

 お前には天海がいる」


 家光様は私を見た。


 その目には、

 確かな信頼が宿っていた。


---


「天海」


「はい」


「家光を……

 頼む」


「必ず」


 家康殿は満足げに目を閉じた。


「天海……

 お前は……

 わしの……

 最後の……友だ……」


 その声は、

 風のように薄れ、

 そして──


 止まった。


---


 静寂が落ちた。


 誰も動かなかった。


 家光様が震える声で言った。


「……祖父上……?」


 私は静かに頭を垂れた。


「家康殿は……

 旅立たれました」


 家光様は唇を噛み、

 涙をこらえた。


 その姿は、

 少年ではなく“将軍”だった。


---


 私は家康殿の枕元に座り、

 静かに手を合わせた。


「家康殿……

 あなたは私を赦し、

 私に託し、

 そして去られた」


 胸の奥で、

 光秀としての罪が静かに疼いた。


「私は……

 天海として生きます。

 光秀としての影は……

 あなたが連れていった」


 涙は流れなかった。


 だが胸の奥で、

 何かが静かに崩れ落ちた。


 そして、

 新しい何かが生まれた。


---


 その日の午後、

 私は家光様に告げた。


「家康殿を……

 “東照大権現”として祀ります」


 家光様は驚いた。


「祖父上を……

 神に?」


「はい。

 家康殿は、

 人の世を超えて

 泰平を守る柱となるべきお方です」


 家光様はゆっくりと頷いた。


「……わかった。

 天海。

 祖父上を……

 頼む」


「承知しました」


---


 その夜、

 駿府の空には

 雲ひとつなかった。


 私は空を見上げ、

 静かに呟いた。


「家康殿……

 あなたは、

 東の空を照らす“光”となりました」


 その瞬間、

 風が静かに吹いた。


 まるで家康殿が

 微笑んでいるかのように。


 ──東照。


 その名が、

 静かに、しかし確かに

 時代に刻まれた。


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