第128話 東照
駿府の朝は、
まるで世界が息を潜めているかのように静かだった。
その静けさの中で、
私は家康殿の寝所へ向かった。
──今朝が、最後だ。
誰も口にはしないが、
皆がそう感じていた。
---
襖を開けると、
家康殿は静かに横たわっていた。
呼吸は細く、
胸の上下はわずか。
だがその顔は、
不思議なほど穏やかだった。
「……天海か」
「はい。
家康殿」
家康殿は微笑んだ。
「来てくれたか。
最後に……
お前の顔を見たかった」
その言葉は、
胸の奥に深く落ちた。
---
「天海。
わしは……
もう行く」
その声は、
風のように薄かった。
「家康殿……」
「よい。
死は怖くない。
わしは十分に生きた」
家康殿はゆっくりと目を閉じた。
「だがな……
“残すもの”がある」
「泰平、でございますね」
「うむ。
泰平は脆い。
人の心は揺らぐ。
だから……
祈りの柱が必要だ」
家康殿は、
私の手を握った。
「天海。
わしを……
“東照大権現”として祀れ」
その言葉は、
家康殿の人生の最後の“願い”だった。
---
「天海。
わしは……
お前に託す」
「承知しました」
「お前は……
影を背負って生きてきた」
胸が揺れた。
「だが影を知る者ほど、
光を作れる」
家康殿は続けた。
「天海。
お前は……
わしの光だ」
その言葉は、
光秀としての罪を抱えた胸に
静かに染み込んだ。
---
その時、
家光様が駆け込んできた。
「祖父上!」
家康殿は目を開け、
家光様を見た。
「家光……
来たか」
「祖父上……
私は……
あなたのようにはなれません」
「なれぬ。
だがそれでよい」
家康殿は微笑んだ。
「お前は……
お前の光を持て」
家光様の目に涙が浮かんだ。
「祖父上……
私は……
弱いのです」
「弱さを知る者が、
強くなる」
家康殿は続けた。
「そして家光。
お前には天海がいる」
家光様は私を見た。
その目には、
確かな信頼が宿っていた。
---
「天海」
「はい」
「家光を……
頼む」
「必ず」
家康殿は満足げに目を閉じた。
「天海……
お前は……
わしの……
最後の……友だ……」
その声は、
風のように薄れ、
そして──
止まった。
---
静寂が落ちた。
誰も動かなかった。
家光様が震える声で言った。
「……祖父上……?」
私は静かに頭を垂れた。
「家康殿は……
旅立たれました」
家光様は唇を噛み、
涙をこらえた。
その姿は、
少年ではなく“将軍”だった。
---
私は家康殿の枕元に座り、
静かに手を合わせた。
「家康殿……
あなたは私を赦し、
私に託し、
そして去られた」
胸の奥で、
光秀としての罪が静かに疼いた。
「私は……
天海として生きます。
光秀としての影は……
あなたが連れていった」
涙は流れなかった。
だが胸の奥で、
何かが静かに崩れ落ちた。
そして、
新しい何かが生まれた。
---
その日の午後、
私は家光様に告げた。
「家康殿を……
“東照大権現”として祀ります」
家光様は驚いた。
「祖父上を……
神に?」
「はい。
家康殿は、
人の世を超えて
泰平を守る柱となるべきお方です」
家光様はゆっくりと頷いた。
「……わかった。
天海。
祖父上を……
頼む」
「承知しました」
---
その夜、
駿府の空には
雲ひとつなかった。
私は空を見上げ、
静かに呟いた。
「家康殿……
あなたは、
東の空を照らす“光”となりました」
その瞬間、
風が静かに吹いた。
まるで家康殿が
微笑んでいるかのように。
──東照。
その名が、
静かに、しかし確かに
時代に刻まれた。




