第127話 最期の夜
駿府の夜は、
静かすぎるほど静かだった。
虫の声も、
風の音も、
まるで遠くへ追いやられたように消えていた。
その静寂の中で、
私は家康殿の寝所へ向かった。
呼ばれたのだ。
──“天海、来い”
その声は弱かったが、
確かに私を呼んでいた。
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襖を開けると、
家康殿は薄い灯りの中で横たわっていた。
その姿は、
もはや“天下人”ではなかった。
ただの老人。
ただの人。
だがその目だけは、
まだ時代を見ていた。
「……天海か」
「はい。
家康殿」
家康殿は微笑んだ。
「今夜が……
最後の夜になるやもしれぬ」
その言葉は、
静かに胸に落ちた。
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「天海。
そばに座れ」
私は枕元に膝をついた。
家康殿は、
ゆっくりと私の手を取った。
その手は軽く、
まるで風のようだった。
「天海……
お前には、
言っておかねばならぬことがある」
「何なりと」
家康殿は、
しばらく目を閉じていた。
そして、
ゆっくりと口を開いた。
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「天海。
お前は……
“二度生きた”男だな」
胸が強く揺れた。
家康殿は、
私の目をまっすぐに見た。
「わしは聞かぬ。
お前が誰であったかなど、
どうでもよい」
その言葉は、
光秀の胸を深く刺した。
「だがな、天海。
お前は……
“二度目の生”を、
見事に使った」
私は息を呑んだ。
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「天海。
人は一度しか生きられぬ。
だが……
お前は二度目の生で、
時代を救った」
家康殿は続けた。
「一度目の生で何をしたかは、
もう関わりない。
二度目の生で何をしたかが、
すべてだ」
その言葉は、
光秀としての罪を静かに溶かしていった。
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「天海。
わしは……
お前を友と思っておる」
私は目を閉じた。
家康殿が“友”と言ったのは、
これが初めてだった。
「わしは天下を取ったが、
友は少なかった。
だが……
お前は違う」
家康殿は、
私の手を強く握った。
「お前は……
わしの最後の友だ」
胸が熱くなった。
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「天海」
「はい」
「わしは……
死ぬのが怖くない」
その言葉は、
まるで少年のように素直だった。
「だがな……
“残すもの”が怖い」
「残すもの……」
「泰平だ。
泰平は脆い。
人の心は揺らぐ。
だから……
お前に託す」
私は深く頭を下げた。
「承知しました」
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「天海。
お前は……
影を背負って生きてきた」
家康殿は、
私の胸の奥を見透かすように言った。
「だが影を背負う者ほど、
光を知る」
その言葉は、
光秀としての罪を抱えた私に向けられた
“最後の赦し”だった。
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「天海。
家光を……
頼む」
「必ず」
「家光は弱い。
だが弱い者は、
強くなる」
家康殿は続けた。
「お前が導けば、
家光は……
時代を続ける男になる」
私は静かに頷いた。
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家康殿は、
ゆっくりと目を閉じた。
「天海……
わしは……
もう……」
その声は、
風のように薄かった。
「家康殿……」
「天海……
そばに……
おれ……」
私は家康殿の手を握りしめた。
「ここにおります」
家康殿の呼吸が、
ゆっくりと、
ゆっくりと、
浅くなっていった。
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その時、
家康殿が最後に言った。
「天海……
お前は……
生きよ……」
その言葉は、
光秀としての私に向けられた
“最後の命”だった。
家康殿の手が、
静かに力を失った。
私は目を閉じた。
「……家康殿」
涙は流れなかった。
だが胸の奥で、
何かが静かに崩れ落ちた。
そして、
新しい何かが生まれた。
──天海としての使命。
──光秀としての赦し。
その二つが、
最期の夜にひとつになった。




