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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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127/156

第127話 最期の夜

 駿府の夜は、

 静かすぎるほど静かだった。


 虫の声も、

 風の音も、

 まるで遠くへ追いやられたように消えていた。


 その静寂の中で、

 私は家康殿の寝所へ向かった。


 呼ばれたのだ。


 ──“天海、来い”


 その声は弱かったが、

 確かに私を呼んでいた。


---


 襖を開けると、

 家康殿は薄い灯りの中で横たわっていた。


 その姿は、

 もはや“天下人”ではなかった。


 ただの老人。

 ただの人。


 だがその目だけは、

 まだ時代を見ていた。


「……天海か」


「はい。

 家康殿」


 家康殿は微笑んだ。


「今夜が……

 最後の夜になるやもしれぬ」


 その言葉は、

 静かに胸に落ちた。


---


「天海。

 そばに座れ」


 私は枕元に膝をついた。


 家康殿は、

 ゆっくりと私の手を取った。


 その手は軽く、

 まるで風のようだった。


「天海……

 お前には、

 言っておかねばならぬことがある」


「何なりと」


 家康殿は、

 しばらく目を閉じていた。


 そして、

 ゆっくりと口を開いた。


---


「天海。

 お前は……

 “二度生きた”男だな」


 胸が強く揺れた。


 家康殿は、

 私の目をまっすぐに見た。


「わしは聞かぬ。

 お前が誰であったかなど、

 どうでもよい」


 その言葉は、

 光秀の胸を深く刺した。


「だがな、天海。

 お前は……

 “二度目の生”を、

 見事に使った」


 私は息を呑んだ。


---


「天海。

 人は一度しか生きられぬ。

 だが……

 お前は二度目の生で、

 時代を救った」


 家康殿は続けた。


「一度目の生で何をしたかは、

 もう関わりない。

 二度目の生で何をしたかが、

 すべてだ」


 その言葉は、

 光秀としての罪を静かに溶かしていった。


---


「天海。

 わしは……

 お前を友と思っておる」


 私は目を閉じた。


 家康殿が“友”と言ったのは、

 これが初めてだった。


「わしは天下を取ったが、

 友は少なかった。

 だが……

 お前は違う」


 家康殿は、

 私の手を強く握った。


「お前は……

 わしの最後の友だ」


 胸が熱くなった。


---


「天海」


「はい」


「わしは……

 死ぬのが怖くない」


 その言葉は、

 まるで少年のように素直だった。


「だがな……

 “残すもの”が怖い」


「残すもの……」


「泰平だ。

 泰平は脆い。

 人の心は揺らぐ。

 だから……

 お前に託す」


 私は深く頭を下げた。


「承知しました」


---


「天海。

 お前は……

 影を背負って生きてきた」


 家康殿は、

 私の胸の奥を見透かすように言った。


「だが影を背負う者ほど、

 光を知る」


 その言葉は、

 光秀としての罪を抱えた私に向けられた

 “最後の赦し”だった。


---


「天海。

 家光を……

 頼む」


「必ず」


「家光は弱い。

 だが弱い者は、

 強くなる」


 家康殿は続けた。


「お前が導けば、

 家光は……

 時代を続ける男になる」


 私は静かに頷いた。


---


 家康殿は、

 ゆっくりと目を閉じた。


「天海……

 わしは……

 もう……」


 その声は、

 風のように薄かった。


「家康殿……」


「天海……

 そばに……

 おれ……」


 私は家康殿の手を握りしめた。


「ここにおります」


 家康殿の呼吸が、

 ゆっくりと、

 ゆっくりと、

 浅くなっていった。


---


 その時、

 家康殿が最後に言った。


「天海……

 お前は……

 生きよ……」


 その言葉は、

 光秀としての私に向けられた

 “最後の命”だった。


 家康殿の手が、

 静かに力を失った。


 私は目を閉じた。


「……家康殿」


 涙は流れなかった。


 だが胸の奥で、

 何かが静かに崩れ落ちた。


 そして、

 新しい何かが生まれた。


 ──天海としての使命。


 ──光秀としての赦し。


 その二つが、

 最期の夜にひとつになった。


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