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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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125/156

第125話 赦しの言葉

 駿府の空は、

 春の気配をわずかに含んでいた。


 だがその柔らかい光とは裏腹に、

 家康殿の病は確実に深まっていた。


 呼吸は浅く、

 声は細く、

 しかしその目だけは、

 まだ時代を見据えていた。


「天海……

 近う寄れ」


 私は枕元に膝をついた。


「天海。

 わしは……

 そろそろ“片をつけねばならぬ”」


「片、でございますか」


「うむ。

 わしの生ではなく──

 “お前の影”の片をな」


 胸が強く揺れた。


 家康殿は、

 122話で“影を見抜いた”。

 だが今は違う。


 **影に触れようとしている。**


---


「天海。

 お前は……

 長い間、

 何かを背負っておるな」


 私は答えられなかった。


 家康殿は続けた。


「わしは聞かぬ。

 お前が何者であったかなど、

 どうでもよい」


 その言葉は、

 まるで光秀の胸を刺す刃のようだった。


「だがな、天海。

 お前が背負ってきたものは──

 “罪”だろう」


 私は息を呑んだ。


 家康殿は、

 静かに、しかし確信を持って言った。


「お前は……

 誰かを裏切ったことがあるな」


 その瞬間、

 本能寺の炎が胸に蘇った。


 信長の叫び。

 明智家の滅亡。

 光秀としての罪。


 私は目を閉じた。


---


「天海。

 わしはな……

 裏切りを憎んだことは、一度もない」


 私は目を開いた。


「裏切りとは、

 “時代の揺らぎ”だ。

 揺らぎがあるから、

 時代は動く」


 家康殿は続けた。


「わしは、

 信長が裏切られたから天下を取れた。

 秀吉が裏切られたから泰平を作れた」


 その言葉は、

 光秀の胸を深く刺した。


「だから天海。

 お前が背負っている罪は──

 時代の罪だ」


 私は震えた。


 家康殿は、

 光秀の罪を“個人の罪”ではなく、

 “時代の罪”として受け止めたのだ。


---


「天海。

 わしはお前を赦す」


 その一言は、

 光秀の胸に突き刺さり、

 そして静かに溶けていった。


「……家康殿」


「お前が誰を裏切ったかなど、

 わしには関わりない。

 だが──

 お前が今、

 泰平のために働いておるなら、

 それで十分だ」


 家康殿は続けた。


「罪を背負った者ほど、

 時代を守れる」


 私は涙がこぼれそうになるのを堪えた。


---


「天海。

 わしの遺言は、

 お前に向けたものではない」


 私は驚いた。


「お前の“影”に向けたものだ」


「影……」


「そうだ。

 お前の中に眠る“もう一人”に向けて言う」


 家康殿は、

 まるで光秀に語りかけるように言った。


「──もう、許せ」


 胸が崩れ落ちた。


 光秀としての罪。

 天海としての使命。


 その二つが、

 初めてひとつに溶けた。


---


「天海。

 お前は天海として生きよ。

 影は……

 わしが連れていく」


 私は震える声で言った。


「家康殿……

 私は……」


「言うな。

 お前は天海だ。

 それでよい」


 家康殿は目を閉じた。


「天海。

 わしはお前を赦す。

 だから──

 お前も自分を赦せ」


---


 駿府を出ると、

 空はどこまでも青かった。


 だがその青さの中で、

 私は確かに“影が薄くなる”のを感じた。


「……家康殿。

 あなたは、

 光秀を赦したのですか」


 風が答えた。


 ──赦した。

 ──だから前へ進め。


 私は静かに呟いた。


「私は……

 天海として生きる。

 光秀としての影は、

 家康殿が連れていった」


 駿府の空に、

 家康殿の“赦しの言葉”が静かに溶けていった。


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