第125話 赦しの言葉
駿府の空は、
春の気配をわずかに含んでいた。
だがその柔らかい光とは裏腹に、
家康殿の病は確実に深まっていた。
呼吸は浅く、
声は細く、
しかしその目だけは、
まだ時代を見据えていた。
「天海……
近う寄れ」
私は枕元に膝をついた。
「天海。
わしは……
そろそろ“片をつけねばならぬ”」
「片、でございますか」
「うむ。
わしの生ではなく──
“お前の影”の片をな」
胸が強く揺れた。
家康殿は、
122話で“影を見抜いた”。
だが今は違う。
**影に触れようとしている。**
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「天海。
お前は……
長い間、
何かを背負っておるな」
私は答えられなかった。
家康殿は続けた。
「わしは聞かぬ。
お前が何者であったかなど、
どうでもよい」
その言葉は、
まるで光秀の胸を刺す刃のようだった。
「だがな、天海。
お前が背負ってきたものは──
“罪”だろう」
私は息を呑んだ。
家康殿は、
静かに、しかし確信を持って言った。
「お前は……
誰かを裏切ったことがあるな」
その瞬間、
本能寺の炎が胸に蘇った。
信長の叫び。
明智家の滅亡。
光秀としての罪。
私は目を閉じた。
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「天海。
わしはな……
裏切りを憎んだことは、一度もない」
私は目を開いた。
「裏切りとは、
“時代の揺らぎ”だ。
揺らぎがあるから、
時代は動く」
家康殿は続けた。
「わしは、
信長が裏切られたから天下を取れた。
秀吉が裏切られたから泰平を作れた」
その言葉は、
光秀の胸を深く刺した。
「だから天海。
お前が背負っている罪は──
時代の罪だ」
私は震えた。
家康殿は、
光秀の罪を“個人の罪”ではなく、
“時代の罪”として受け止めたのだ。
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「天海。
わしはお前を赦す」
その一言は、
光秀の胸に突き刺さり、
そして静かに溶けていった。
「……家康殿」
「お前が誰を裏切ったかなど、
わしには関わりない。
だが──
お前が今、
泰平のために働いておるなら、
それで十分だ」
家康殿は続けた。
「罪を背負った者ほど、
時代を守れる」
私は涙がこぼれそうになるのを堪えた。
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「天海。
わしの遺言は、
お前に向けたものではない」
私は驚いた。
「お前の“影”に向けたものだ」
「影……」
「そうだ。
お前の中に眠る“もう一人”に向けて言う」
家康殿は、
まるで光秀に語りかけるように言った。
「──もう、許せ」
胸が崩れ落ちた。
光秀としての罪。
天海としての使命。
その二つが、
初めてひとつに溶けた。
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「天海。
お前は天海として生きよ。
影は……
わしが連れていく」
私は震える声で言った。
「家康殿……
私は……」
「言うな。
お前は天海だ。
それでよい」
家康殿は目を閉じた。
「天海。
わしはお前を赦す。
だから──
お前も自分を赦せ」
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駿府を出ると、
空はどこまでも青かった。
だがその青さの中で、
私は確かに“影が薄くなる”のを感じた。
「……家康殿。
あなたは、
光秀を赦したのですか」
風が答えた。
──赦した。
──だから前へ進め。
私は静かに呟いた。
「私は……
天海として生きる。
光秀としての影は、
家康殿が連れていった」
駿府の空に、
家康殿の“赦しの言葉”が静かに溶けていった。




