第124話 家光の影
駿府から戻った翌日、
江戸城の空気はどこか重かった。
家康殿の死が近いことを、
誰もが言葉にせずとも感じていた。
その中で、
家光様だけがひときわ静かだった。
静かすぎた。
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「天海。
少し……話がしたい」
家光様は、
人払いをして私を呼んだ。
その声は、
少年のように弱く、
しかしどこか必死だった。
「どうされましたか」
「……私は、
父上にも、祖父上にも、
なれない気がする」
家光様は拳を握りしめていた。
「秀忠父上は落ち着いていて、
祖父上は強くて……
私は、何もない」
その言葉は、
まるでかつての光秀の声のようだった。
──私は、何もない。
胸の奥が痛んだ。
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「家光様。
あなたは“何もない”のではありません」
「では、何があるのだ」
「“揺らぎ”です」
家光様は目を瞬いた。
「揺らぎ……?」
「はい。
揺らぐ者は、
変わることができます。
変わる者は、
強くなれます」
「……私は、弱い」
「弱さを知る者だけが、
本当の強さを持てます」
家光様は俯いた。
「天海。
私は……
祖父上が怖い」
その一言は、
少年の告白だった。
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「家光様。
家康殿は、
あなたを恐れてはおられません」
「……本当に?」
「はい。
家康殿は、
あなたの“弱さ”を見て、
“この子は強くなる”と仰いました」
家光様は息を呑んだ。
「祖父上が……
私を?」
「はい。
家康殿は、
あなたの中に“光”を見ておられました」
「光……」
家光様はその言葉を、
まるで宝物のように口の中で転がした。
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しばらく沈黙が続いた後、
家光様はぽつりと言った。
「天海。
私は……
時々、自分が誰なのかわからなくなる」
その言葉は、
私の胸を深く刺した。
──自分が誰なのかわからない。
それは光秀が、
本能寺の後に抱え続けた痛みだった。
私は静かに言った。
「家光様。
人は皆、
“自分が誰か”を探しながら生きております」
「天海もか」
「はい。
私も……
長い間、
自分が何者なのか、
わかりませんでした」
家光様は驚いたように私を見た。
「天海ほどの者でも……?」
「はい。
影を背負って生きてきました」
家光様は息を呑んだ。
「影……
私にもあるのか」
「あります。
しかし影があるからこそ、
光が生まれます」
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家光様はしばらく黙り、
やがて小さく呟いた。
「天海。
私は……
あなたに教えてほしい」
「何をでしょう」
「“影の歩き方”を」
その言葉は、
胸の奥に深く響いた。
光秀としての影。
天海としての影。
その両方を抱えて生きてきた自分に、
家光様は“影の歩き方”を求めている。
私は静かに頷いた。
「承知しました。
家光様。
影を恐れず、
影と共に歩む方法を、
お教えいたします」
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その夜、
私はひとり江戸城の廊下を歩いた。
月が静かに照らしていた。
「……光秀。
お前は影に飲まれた」
私は胸の奥で呟いた。
「だが家光様は、
影を抱えながら光を探している」
その姿は、
かつての自分とは違う。
だからこそ、
導かねばならない。
「家光様……
あなたは、
私が救えなかった“若き日の光秀”なのかもしれぬ」
月が静かに揺れた。
その光は、
家光様の未来を照らす灯のようだった。




