第122話 駿府の影
江戸の空が、
どこか薄く霞んで見えた朝だった。
その霞の向こうから、
ひとりの使者が駆け込んできた。
「天海様!
駿府より急使!
“至急参られたし”とのこと!」
私は文を受け取り、
封を切る前から悟っていた。
──これは、
家康殿が“呼んでいる”のだ。
ただの政務ではない。
ただの相談でもない。
これは、
**別れの準備** だ。
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駿府城に着くと、
空気が違った。
静かすぎる。
風の音すら遠い。
案内された部屋の襖が開くと、
家康殿がいた。
だがその姿は、
かつての“天下人”ではなかった。
背は少し丸くなり、
目の奥に深い疲れが宿っていた。
「……来たか、天海」
「はい。
家康殿のお呼びとあらば」
家康殿は笑った。
だがその笑みは、
どこか寂しげだった。
「天海。
わしは、
そろそろ“終わり”を考えねばならぬ」
その言葉は、
まるで冬の空気のように冷たく、
しかしどこか穏やかだった。
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「天海。
わしが死んだ後のことを、
そろそろ決めねばならぬ」
「……家康殿」
「わしは長く生きすぎた。
戦の時代を終わらせ、
泰平の形を作った。
あとは……
お前たちが続ければよい」
私は静かに息を吸った。
「家康殿。
まだお元気で──」
「よい。
嘘は言わぬでよい」
家康殿は、
私の目をまっすぐに見た。
「天海。
わしはもう、
“死の準備”を始めておる」
その瞬間、
胸の奥が痛んだ。
天海としてではない。
**光秀として** 痛んだ。
──また、
ひとつの時代が終わる。
──また、
自分は“生き残る”。
その罪悪感が、
ふっと胸を刺した。
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「天海。
お前に頼みたいことがある」
「何なりと」
「わしが死んだら──
“神”にしてくれ」
私は息を呑んだ。
「……神、に」
「うむ。
わしは人の世を整えた。
だが人の世は、
人だけでは続かぬ。
“祈り”が必要だ」
家康殿は続けた。
「天海。
お前がわしを祀れ。
東の都を守る“柱”として」
私は深く頭を下げた。
「承知しました」
だが胸の奥で、
光秀が囁いた。
──お前はまた、
天下人を祀るのか。
──信長を討ち、
家康を神にするのか。
──お前は何者だ。
私はその声を、
静かに押し殺した。
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「天海」
家康殿の声が、
ふっと柔らかくなった。
「お前は……
時々、
“影”を背負っておるな」
私は動けなかった。
家康殿は続けた。
「わしは聞かぬ。
お前が何者であろうと、
わしには関わりない」
その言葉は、
まるで全てを見透かしているようだった。
「だが天海。
お前が背負っている影は、
江戸を照らす光にもなる」
私は、
胸の奥が震えるのを感じた。
「……家康殿」
「影を持つ者は、
光を知る。
光を知る者は、
都を導ける」
家康殿は静かに言った。
「天海。
お前は“影の僧”だ。
だからこそ、
江戸の心を作れる」
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その帰り道、
駿府の空はどこまでも青かった。
だがその青さの中に、
私は確かに“影”を見た。
光秀としての影。
天海としての影。
どちらも消えない。
どちらも自分だ。
「……家康殿。
あなたは、
私が何者かを知っていたのですか」
風が答えた。
──知っていた。
──だが問わなかった。
私は静かに目を閉じた。
「私は……
天海として生きる。
だが光秀としての影も、
背負っていく」
駿府の空に、
冬の光が差し込んだ。
それはまるで、
家康殿の最後の光のようだった。




