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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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122/156

第122話 駿府の影

 江戸の空が、

 どこか薄く霞んで見えた朝だった。


 その霞の向こうから、

 ひとりの使者が駆け込んできた。


「天海様!

 駿府より急使!

 “至急参られたし”とのこと!」


 私は文を受け取り、

 封を切る前から悟っていた。


 ──これは、

 家康殿が“呼んでいる”のだ。


 ただの政務ではない。

 ただの相談でもない。


 これは、

 **別れの準備** だ。


---


 駿府城に着くと、

 空気が違った。


 静かすぎる。

 風の音すら遠い。


 案内された部屋の襖が開くと、

 家康殿がいた。


 だがその姿は、

 かつての“天下人”ではなかった。


 背は少し丸くなり、

 目の奥に深い疲れが宿っていた。


「……来たか、天海」


「はい。

 家康殿のお呼びとあらば」


 家康殿は笑った。

 だがその笑みは、

 どこか寂しげだった。


「天海。

 わしは、

 そろそろ“終わり”を考えねばならぬ」


 その言葉は、

 まるで冬の空気のように冷たく、

 しかしどこか穏やかだった。


---


「天海。

 わしが死んだ後のことを、

 そろそろ決めねばならぬ」


「……家康殿」


「わしは長く生きすぎた。

 戦の時代を終わらせ、

 泰平の形を作った。

 あとは……

 お前たちが続ければよい」


 私は静かに息を吸った。


「家康殿。

 まだお元気で──」


「よい。

 嘘は言わぬでよい」


 家康殿は、

 私の目をまっすぐに見た。


「天海。

 わしはもう、

 “死の準備”を始めておる」


 その瞬間、

 胸の奥が痛んだ。


 天海としてではない。

 **光秀として** 痛んだ。


 ──また、

 ひとつの時代が終わる。


 ──また、

 自分は“生き残る”。


 その罪悪感が、

 ふっと胸を刺した。


---


「天海。

 お前に頼みたいことがある」


「何なりと」


「わしが死んだら──

 “神”にしてくれ」


 私は息を呑んだ。


「……神、に」


「うむ。

 わしは人の世を整えた。

 だが人の世は、

 人だけでは続かぬ。

 “祈り”が必要だ」


 家康殿は続けた。


「天海。

 お前がわしを祀れ。

 東の都を守る“柱”として」


 私は深く頭を下げた。


「承知しました」


 だが胸の奥で、

 光秀が囁いた。


 ──お前はまた、

 天下人を祀るのか。


 ──信長を討ち、

 家康を神にするのか。


 ──お前は何者だ。


 私はその声を、

 静かに押し殺した。


---


「天海」


 家康殿の声が、

 ふっと柔らかくなった。


「お前は……

 時々、

 “影”を背負っておるな」


 私は動けなかった。


 家康殿は続けた。


「わしは聞かぬ。

 お前が何者であろうと、

 わしには関わりない」


 その言葉は、

 まるで全てを見透かしているようだった。


「だが天海。

 お前が背負っている影は、

 江戸を照らす光にもなる」


 私は、

 胸の奥が震えるのを感じた。


「……家康殿」


「影を持つ者は、

 光を知る。

 光を知る者は、

 都を導ける」


 家康殿は静かに言った。


「天海。

 お前は“影の僧”だ。

 だからこそ、

 江戸の心を作れる」


---


 その帰り道、

 駿府の空はどこまでも青かった。


 だがその青さの中に、

 私は確かに“影”を見た。


 光秀としての影。

 天海としての影。


 どちらも消えない。

 どちらも自分だ。


「……家康殿。

 あなたは、

 私が何者かを知っていたのですか」


 風が答えた。


 ──知っていた。

 ──だが問わなかった。


 私は静かに目を閉じた。


「私は……

 天海として生きる。

 だが光秀としての影も、

 背負っていく」


 駿府の空に、

 冬の光が差し込んだ。


 それはまるで、

 家康殿の最後の光のようだった。


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