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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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第12話 野辺の焔

 東へ向かう街道は、朝の光を受けて静かに伸びていた。

 だが、その静けさはどこか不自然だった。

 鳥の声が少なく、風が運ぶ匂いに、焦げたような微かな臭いが混じっている。


 ──何かが起きている。


 宗易として歩き始めたばかりの私は、その違和感を無視できなかった。

 惟任日向守としての死を背負い、光秀としての名を捨てた今、

 世界の変化に敏感であることは、生き延びるための条件でもあった。


 しばらく歩くと、道端に倒れた荷車が見えた。

 車輪は折れ、荷は散乱している。

 血の跡はないが、急いで逃げたような痕跡があった。


 私は荷の中から、焦げた布切れを拾い上げた。

 火がついたのは最近だ。

 風向きからして、東の村で何かがあったのだろう。


 ──行くしかない。


 宗易としての旅は、ただ歩くだけではない。

 影として生きる者は、光の乱れを見過ごすことができぬ。


 私は荷車を離れ、東の村へ向かった。


 村に近づくにつれ、焦げた匂いが強くなった。

 やがて、黒く焼けた家屋が見えた。

 屋根は落ち、壁は崩れ、煙がまだ細く立ち上っている。


 村は、昨夜のうちに襲われたのだ。


 私は慎重に足を進めた。

 焼け跡の間を歩くと、倒れた桶や壊れた農具が散乱している。

 だが、不思議なことに、死体は一つもなかった。


 ──逃げたのか。

 それとも、連れ去られたのか。


 そのとき、かすかな声が聞こえた。


「……誰か……」


 私は声の方へ向かった。

 焼け落ちた納屋の影に、老人が倒れていた。

 衣は煤で黒くなり、腕に深い傷を負っている。


「大丈夫か」


 老人は私を見上げ、かすれた声で言った。


「……逃げろ……まだ近くに……」


「何があった」


「……“東の衆”が……」


 老人の言葉は途切れた。

 だが、その一言で十分だった。


 東国では、戦の余波で武装した流民や浪人が群れをなし、

 村を襲うことが増えていると聞く。

 家康の軍勢とは別の、制御の効かぬ“荒れ”だ。


 私は老人の傷を布で縛り、背を支えた。


「水場はどこだ」


「……村の外れ……井戸が……」


 私は老人を背負い、村の外れへ向かった。

 井戸は無事だった。

 水を汲み、老人の口元へ運ぶと、わずかに息が整った。


「……皆、山へ逃げた……

 だが、子どもが……一人……」


 老人の目が揺れた。


「どこだ」


「……北の畑……逃げ遅れた……」


 私は立ち上がった。

 宗易としての旅は、名を隠すためのものではない。

 影として生きる者には、影の役割がある。


 北の畑へ向かうと、風に揺れる麦の間に、小さな影が見えた。

 子どもだ。

 怯えた目でこちらを見ている。


「大丈夫だ。来い」


 子どもが一歩踏み出したその瞬間、

 畑の向こうから複数の足音が聞こえた。


 武装した男たちが現れた。

 粗末な鎧、錆びた槍。

 だが、目は獣のように荒んでいる。


「おい、そこの男。

 その子は置いていけ」


 私は子どもを背にかばった。


「この村を襲ったのはお前たちか」


「そうだ。

 食い物がなけりゃ、奪うしかねえだろう」


 男たちは笑った。

 その笑いは、戦の後に生まれる“荒れ”そのものだった。


「邪魔するなら、お前も連れていく」


 私は静かに息を吸った。

 惟任日向守としての剣はもうない。

 だが、宗易としての影は、ここで退くわけにはいかぬ。


「……子どもを放せ」


「は? 何様のつもりだ」


 私は足元の土を掴み、男の目へ投げつけた。

 男が怯んだ隙に、子どもを抱えて畑の奥へ走った。


「追え!」


 怒号が響く。

 だが、畑の先には小さな林があった。

 私は子どもを抱えたまま林へ飛び込み、木々の影に身を潜めた。


 男たちの足音が近づき、やがて遠ざかる。

 私は子どもを下ろし、息を整えた。


「もう大丈夫だ」


 子どもは震えながらも、私の手を握った。


「……おじさん、名前は……?」


 私は静かに答えた。


「宗易だ」


 子どもは小さく頷いた。


「ありがとう、宗易さん」


 その言葉は、胸の奥に静かに響いた。


 ──影にも、影の役割がある。


 私は子どもを老人のもとへ連れ戻し、

 二人を山道へ送り出した。


 村に戻ると、焼け跡の向こうに、

 東の空がわずかに赤く染まっていた。


 それは朝焼けではなく、

 東国の荒れが放つ、遠い焔の色のように見えた。


 私は懐の黒い布を握りしめ、

 静かに歩き出した。


 影の道は、まだ続いている。


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