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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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第118話 呼吸

 大坂の炎が消えてから、

 江戸には新しい風が吹き始めていた。


 戦の匂いは消え、

 代わりに“人の匂い”が満ちていく。


 江戸は膨らんでいた。

 まるで巨大な生き物が、

 深く息を吸い込んでいるかのように。


「天海様……

 江戸の人口が、

 止まらず増えております」


 普請奉行が、

 汗を拭いながら報告した。


「どれほどだ」


「大坂から、京から、

 さらには東北・関東の農村からも……

 “江戸に行けば仕事がある”と、

 人が押し寄せております」


 私は文を受け取り、

 静かに目を通した。


「……江戸は、

 光を放ち始めたのだ」


「光……ですか」


「そうだ。

 光があれば、人は集まる。

 だが──

 光が強すぎれば、

 影もまた濃くなる」


 普請奉行は息を呑んだ。


「影……とは」


「治安だ。

 そして水だ」


---


 私は江戸の町へ出た。


 町は活気に満ちていた。

 だがその活気の奥に、

 確かな“ざわめき”があった。


 人が増えすぎている。

 水が足りない。

 井戸が枯れ、

 川は濁り、

 夜には盗賊が出る。


 江戸は、

 まだ“都市の呼吸”を知らない。


「……このままでは、

 江戸は息苦しくなる」


 私は呟いた。


---


 その時、

 町の子どもが駆け寄ってきた。


「お坊さん!

 井戸が枯れたよ!

 お母ちゃんが困ってる!」


 私は膝をつき、

 子どもの目を見た。


「井戸はどこだ」


「こっち!」


 子どもに案内され、

 町外れの井戸へ向かった。


 井戸は、

 底が見えるほどに水が減っていた。


「……水脈が変わっている」


 普請奉行が驚いた。


「天海様、

 なぜこのような……?」


「人が増えれば、

 地が変わる。

 地が変われば、

 水も変わる」


 私は井戸の縁に手を置いた。


「江戸は、

 まだ“呼吸”を知らぬのだ」


---


 その夜、

 私は江戸城に戻り、

 家康殿に報告した。


「家康殿。

 江戸は膨らんでおります。

 だが、

 水と治安が追いついておりません」


「うむ……

 わしも気づいておった」


 家康殿は静かに言った。


「天海。

 江戸はまだ“形”だけだ。

 形が大きくなれば、

 中身が追いつかぬ」


「はい。

 江戸は今、

 息を吸いすぎております」


「吸いすぎれば、

 苦しくなる」


「その通りです」


---


 家康殿は地図を広げた。


「天海。

 江戸の水をどうする」


「水は“血”です。

 都市の血が滞れば、

 病が生まれます」


「うむ。

 ではどうすればよい」


「水を“流す”のです」


 家康殿の目がわずかに動いた。


「流す……?」


「はい。

 江戸の水は、

 まだ“溜まっている”だけです。

 溜まれば濁る。

 流れれば清くなる」


「なるほど……

 川を整えるか」


「川だけでは足りません。

 “新しい水脈”が必要です」


 家康殿は息を呑んだ。


「天海。

 それは……

 大工事になるぞ」


「江戸は、

 大工事を必要とする都です」


---


 その時、

 使者が駆け込んできた。


「家康公!

 江戸南部で盗賊が横行しております!

 人が増えすぎて、

 治安が追いつかぬとのこと!」


 家康殿は静かに言った。


「……天海。

 江戸は光だ。

 だが光が強くなれば、

 影もまた濃くなる」


「はい。

 影を整えねば、

 光は揺らぎます」


「治安も“心”の一部だな」


「その通りです」


---


 私は深く頭を下げた。


「家康殿。

 江戸は今、

 “呼吸”を覚えようとしております」


「呼吸……」


「はい。

 水が流れ、

 人が動き、

 治安が整い、

 寺社が心を支える。

 それが都市の呼吸です」


 家康殿は静かに頷いた。


「天海。

 江戸に呼吸を与えよ」


「承知しました」


---


 江戸城を出た後、

 私は夜の江戸を歩いた。


 人の声。

 水の音。

 遠くで聞こえる喧騒。


 江戸は、

 確かに生きていた。


「……江戸よ。

 お前はまだ幼い。

 だが、

 必ず大きくなる」


 私は北の空を見上げた。


 そこには、

 寛永寺が立つ未来の気配があった。


「江戸の呼吸を整える。

 それが、

 私の役目だ」


 夜風が静かに吹き抜けた。

 江戸という巨大な生き物が、

 ゆっくりと息をしていた。


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