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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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115/156

第115話 余燼

 大坂城が炎に包まれ、

 秀頼と淀殿が自害したという報せが届いてから、

 まだ一夜しか経っていない。


 江戸の空は静かだった。

 だがその静寂は、

 まるで“時代の呼吸”が止まったかのようだった。


 私は江戸城の一室で、

 大坂から届いた最後の文を見つめていた。


「……終わった」


 普請奉行が震える声で言った。


「天海様……

 豊臣家は……

 滅びました」


「滅びたのではない。

 “終わらせた”のだ」


 私は文を畳んだ。


 豊臣は、

 戦に負けて滅んだのではない。


 時代に負けて滅んだ。


 その滅びは、

 誰の手によるものでもなく、

 時代そのものの流れだった。


---


 その時、

 家康殿が入ってきた。


「天海。

 大坂はどうだ」


「炎は収まりました。

 しかし、

 城は跡形もなく……」


「うむ。

 予想通りだ」


 家康殿は椅子に腰を下ろし、

 静かに言った。


「天海。

 豊臣は滅びた。

 だが──

 それで時代が終わるわけではない」


「はい」


「むしろ、

 ここから始まる」


 私は深く頷いた。


「……徳川の時代が」


「違う」


 家康殿は首を振った。


「“泰平の時代”だ」


 私は息を呑んだ。


「……徳川ではなく、

 泰平」


「そうだ。

 わしは徳川のために戦ったのではない。

 泰平のために戦った」


 家康殿の声は静かだったが、

 その奥に揺るぎない意志があった。


---


 私は静かに言った。


「家康殿。

 秀頼様は……

 最後まで迷っておりました」


「迷う者は、

 最後に“覚悟”を選ぶ」


「……覚悟」


「うむ。

 秀頼は、

 豊臣の名を守るために死んだ。

 それは、

 彼なりの“未来”だ」


 私は目を伏せた。


「……淀殿は、

 秀頼様を守るために死んだのでしょうか」


「違う。

 淀殿は“豊臣の象徴”として死んだ。

 秀頼は“豊臣の未来”として死んだ」


 私は静かに言った。


「……未来としての死」


「そうだ。

 死は終わりではない。

 “意味”だ」


---


 家康殿は立ち上がり、

 窓の外の江戸を見下ろした。


「天海。

 豊臣が滅びたことで、

 江戸は揺るぎない都となる」


「……はい」


「だが江戸は、

 まだ“形”だけだ。

 これから“心”を作らねばならぬ」


 私は深く頭を下げた。


「承知しました。

 江戸の心、

 必ず整えてみせます」


「うむ。

 それがお前の役目だ」


---


 その時、

 私はふと気づいた。


 家康殿の背中が、

 いつもより小さく見えた。


 戦国を生き抜き、

 天下を治め、

 豊臣を終わらせた男。


 その背中に、

 初めて“老い”が見えた。


「……家康殿」


「どうした、天海」


「お疲れではありませんか」


「疲れたとも」


 家康殿は静かに笑った。


「わしは戦を終わらせた。

 だが泰平を続けるのは、

 わしではない」


「……では、誰が」


「お前だ、天海」


 私は息を呑んだ。


「……私が」


「そうだ。

 お前は江戸の心を作る者だ。

 わしが死んでも、

 江戸が揺らがぬようにせねばならぬ」


 私は深く頭を下げた。


「必ずや」


---


 家康殿は背を向け、

 静かに言った。


「天海。

 豊臣は滅びた。

 だがその滅びは、

 徳川のためではない」


「……では、何のために」


「“時代のため”だ」


 私は胸の奥が震えるのを感じた。


「……時代のため」


「そうだ。

 時代は豊臣を許さなかった。

 だから滅びた。

 だが──

 時代は徳川を許すとは限らぬ」


 私は息を呑んだ。


「……では、

 徳川もまた」


「滅びる。

 いずれはな」


 家康殿は静かに言った。


「だが天海。

 泰平だけは残せ。

 それがわしの願いだ」


 私は深く頭を下げた。


「承知しました。

 泰平を、

 必ず残します」


---


 家康殿が去った後、

 私はひとり、

 大坂から届いた文を見つめた。


 秀頼の名。

 淀殿の名。

 そして──

 燃え落ちた大坂城の報せ。


 私は静かに目を閉じた。


「……秀頼様、

 淀殿。

 どうか安らかに」


 涙が、

 ひと筋だけ頬を伝った。


 それは、

 豊臣のための涙ではない。


 “時代の終わり”のための涙だった。


 江戸の空は静かだった。

 だがその静寂の奥で、

 確かに“新しい時代”が息をし始めていた。


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