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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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113/156

第113話 前夜の前夜

 大坂冬の陣が和睦で終わってから、

 まだ多くの日は経っていない。


 だが──

 大坂の空気は、

 和睦の静けさとは程遠かった。


 浪人たちは不満を募らせ、

 淀殿は怒りを抑えられず、

 秀頼は迷いの中で立ち尽くしている。


 そして江戸には、

 次々と不穏な報せが届いていた。


「天海様……

 大坂城、堀の埋め立てを拒む浪人たちが、

 城内で暴れております」


「……やはり、そうなるか」


 私は文を畳んだ。


 和睦は、

 豊臣を救うためのものではなかった。


 “滅びの形を決めるための時間”だった。


 その時、

 家康殿が入ってきた。


「天海。

 大坂はどうだ」


「揺れております。

 和睦は、

 豊臣の内部をさらに裂きました」


「うむ。

 予想通りだ」


 家康殿は椅子に腰を下ろし、

 静かに言った。


「天海。

 豊臣は、

 もう“生き残る形”を失った」


「……はい」


「残るのは、

 “滅びの形”だけだ」


 私は息を呑んだ。


「家康殿。

 では、

 豊臣は……」


「滅びる。

 だが──

 どう滅びるかは、

 まだ決まっておらぬ」


 家康殿は文を指で叩いた。


「天海。

 わしは戦を望まぬ。

 だが、

 戦を避ける道は、

 もはや細い」


「……夏が来ます」


「うむ。

 夏の陣だ」


---


 私は静かに言った。


「家康殿。

 豊臣は、

 まだ“静かな滅び”を選べます」


「選べぬ」


 家康殿は首を振った。


「淀殿は怒り、

 浪人たちは血を求め、

 秀頼は迷っている。

 この三つが揃えば、

 戦は避けられぬ」


「……しかし、

 秀頼様は戦を望んでおりません」


「望んでおらぬ者が、

 戦を止められるほど強ければよいがな」


 家康殿の声は静かだった。


「秀頼は優しい。

 だが優しさだけでは、

 時代は動かせぬ」


 私は目を伏せた。


「……豊臣は、

 自ら滅びを選びつつあります」


「そうだ。

 そして天海──

 お前はその“形”を見極めねばならぬ」


---


 その時、

 使者が駆け込んできた。


「家康公!

 大坂より急報!

 浪人勢、

 “和睦は裏切り”と叫び、

 城内で武器を取り始めております!」


 家康殿は微動だにしなかった。


「……来たか」


 私は文を受け取り、

 内容を確認した。


「“徳川を討て”

 “豊臣の名を守れ”

 “戦こそ武士の道”

 浪人たちが秀頼様を煽っております」


「天海。

 これはもう、

 止まらぬ」


「……はい」


「大坂は、

 “戦う理由”を手に入れた」


 家康殿は目を閉じた。


「そして戦う理由を持った者は、

 必ず戦う」


---


 私は静かに言った。


「家康殿。

 豊臣が戦を選べば、

 江戸は揺れます」


「揺れぬ。

 揺らしてはならぬ」


 家康殿は立ち上がり、

 江戸の町を見下ろした。


「天海。

 江戸は光だ。

 大坂は影だ。

 影が濃くなるほど、

 光は強くなければならぬ」


「承知しました」


「江戸の心を整えよ。

 大坂が燃える時こそ、

 江戸は揺れてはならぬ」


 私は深く頭を下げた。


「江戸の心、

 必ず守ります」


---


 家康殿は背を向け、

 静かに言った。


「天海。

 夏の陣は、

 豊臣の“最後の形”だ」


「……はい」


「そして天海──

 これはわしと豊臣の戦ではない」


 私は息を呑んだ。


「……では、何の戦でしょう」


「“時代と豊臣”の戦だ」


 家康殿の声は、

 静かで、

 揺るぎなかった。


「天海。

 時代は豊臣を許さぬ。

 だから滅びる。

 だが──

 その滅びの形だけは、

 お前が見届けよ」


 私は深く頭を下げた。


「承知しました」


---


 江戸の空は静かだった。

 だがその静寂の奥で、

 確かに“夏”が近づいていた。


「……大坂夏の陣。

 滅びの形が決まる」


 私は僧衣の袖を握りしめた。


 時代は、

 静かに終わりへ向かっていた。


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