第113話 前夜の前夜
大坂冬の陣が和睦で終わってから、
まだ多くの日は経っていない。
だが──
大坂の空気は、
和睦の静けさとは程遠かった。
浪人たちは不満を募らせ、
淀殿は怒りを抑えられず、
秀頼は迷いの中で立ち尽くしている。
そして江戸には、
次々と不穏な報せが届いていた。
「天海様……
大坂城、堀の埋め立てを拒む浪人たちが、
城内で暴れております」
「……やはり、そうなるか」
私は文を畳んだ。
和睦は、
豊臣を救うためのものではなかった。
“滅びの形を決めるための時間”だった。
その時、
家康殿が入ってきた。
「天海。
大坂はどうだ」
「揺れております。
和睦は、
豊臣の内部をさらに裂きました」
「うむ。
予想通りだ」
家康殿は椅子に腰を下ろし、
静かに言った。
「天海。
豊臣は、
もう“生き残る形”を失った」
「……はい」
「残るのは、
“滅びの形”だけだ」
私は息を呑んだ。
「家康殿。
では、
豊臣は……」
「滅びる。
だが──
どう滅びるかは、
まだ決まっておらぬ」
家康殿は文を指で叩いた。
「天海。
わしは戦を望まぬ。
だが、
戦を避ける道は、
もはや細い」
「……夏が来ます」
「うむ。
夏の陣だ」
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私は静かに言った。
「家康殿。
豊臣は、
まだ“静かな滅び”を選べます」
「選べぬ」
家康殿は首を振った。
「淀殿は怒り、
浪人たちは血を求め、
秀頼は迷っている。
この三つが揃えば、
戦は避けられぬ」
「……しかし、
秀頼様は戦を望んでおりません」
「望んでおらぬ者が、
戦を止められるほど強ければよいがな」
家康殿の声は静かだった。
「秀頼は優しい。
だが優しさだけでは、
時代は動かせぬ」
私は目を伏せた。
「……豊臣は、
自ら滅びを選びつつあります」
「そうだ。
そして天海──
お前はその“形”を見極めねばならぬ」
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その時、
使者が駆け込んできた。
「家康公!
大坂より急報!
浪人勢、
“和睦は裏切り”と叫び、
城内で武器を取り始めております!」
家康殿は微動だにしなかった。
「……来たか」
私は文を受け取り、
内容を確認した。
「“徳川を討て”
“豊臣の名を守れ”
“戦こそ武士の道”
浪人たちが秀頼様を煽っております」
「天海。
これはもう、
止まらぬ」
「……はい」
「大坂は、
“戦う理由”を手に入れた」
家康殿は目を閉じた。
「そして戦う理由を持った者は、
必ず戦う」
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私は静かに言った。
「家康殿。
豊臣が戦を選べば、
江戸は揺れます」
「揺れぬ。
揺らしてはならぬ」
家康殿は立ち上がり、
江戸の町を見下ろした。
「天海。
江戸は光だ。
大坂は影だ。
影が濃くなるほど、
光は強くなければならぬ」
「承知しました」
「江戸の心を整えよ。
大坂が燃える時こそ、
江戸は揺れてはならぬ」
私は深く頭を下げた。
「江戸の心、
必ず守ります」
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家康殿は背を向け、
静かに言った。
「天海。
夏の陣は、
豊臣の“最後の形”だ」
「……はい」
「そして天海──
これはわしと豊臣の戦ではない」
私は息を呑んだ。
「……では、何の戦でしょう」
「“時代と豊臣”の戦だ」
家康殿の声は、
静かで、
揺るぎなかった。
「天海。
時代は豊臣を許さぬ。
だから滅びる。
だが──
その滅びの形だけは、
お前が見届けよ」
私は深く頭を下げた。
「承知しました」
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江戸の空は静かだった。
だがその静寂の奥で、
確かに“夏”が近づいていた。
「……大坂夏の陣。
滅びの形が決まる」
私は僧衣の袖を握りしめた。
時代は、
静かに終わりへ向かっていた。




