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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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第112話 静寂

 大坂の空に火が上がってから、

 まだ数日しか経っていない。


 だが──

 戦は、突然止まった。


 和睦。


 その報せが江戸に届いた時、

 城内はざわめきに包まれた。


「天海様!

 大坂と徳川方、和睦とのことです!」


 普請奉行が息を切らして駆け込んできた。


「……和睦、か」


「はい!

 これで戦は終わりです!

 豊臣家も救われ──」


「終わりではない」


 私は静かに言った。


 普請奉行は目を丸くした。


「え……?」


「これは“終わりの前の静寂”だ」


 その時、

 家康殿が入ってきた。


「天海。

 和睦の報せは聞いたな」


「はい。

 ですが──

 これは終わりではありません」


「うむ。

 わしもそう思う」


 家康殿は椅子に腰を下ろし、

 文を一瞥した。


「天海。

 和睦は、

 “形”だけだ」


「……形だけ」


「そうだ。

 豊臣は和睦を望んだのではない。

 “時間”を望んだのだ」


 私は深く頷いた。


「戦を続ける力が尽きた。

 だから一度止めただけ。

 心は止まっていない」


「うむ。

 そして浪人たちは、

 和睦を望んでおらぬ」


 家康殿は文を指で叩いた。


「天海。

 浪人たちは血を求める。

 和睦は彼らにとって“裏切り”だ」


「……大坂の内部は、

 さらに裂けます」


「そうだ。

 和睦は、

 豊臣を救うのではなく、

 豊臣を“内側から壊す”」


 私は息を呑んだ。


「……和睦が、

 滅びを早める」


「そうだ」


---


 その時、

 使者が駆け込んできた。


「家康公!

 大坂より急報!

 “堀を埋める”との条件に、

 浪人勢が激しく反発しております!」


 家康殿は微動だにしなかった。


「……来たか」


 私は文を受け取り、

 内容を確認した。


「“堀を埋めるな”

 “和睦は豊臣の恥”

 “徳川に屈するな”

 浪人たちが城内で暴れております」


「天海。

 堀を埋めるというのは、

 “戦をしない”という形だ」


「はい。

 しかし浪人たちは、

 その形を許さない」


「そうだ。

 だから和睦は、

 豊臣の内部を裂く」


 家康殿は静かに言った。


「天海。

 和睦は、

 豊臣にとって“毒”だ」


「……毒」


「うむ。

 飲めば死ぬ。

 だが飲まねば、

 もっと早く死ぬ」


 私は深く息を吸った。


「家康殿。

 では豊臣は……」


「滅びる。

 だが──

 まだ“滅びの形”は決まっておらぬ」


---


 私は窓の外の江戸を見た。


 江戸の空は静かだった。

 だがその静寂の奥で、

 確かに何かが動いていた。


「……大坂は静かになりました。

 しかし、

 その静けさは不自然です」


「そうだ。

 嵐の前の静けさだ」


 家康殿は立ち上がり、

 江戸の町を見下ろした。


「天海。

 大坂は、

 “戦を止めた”のではない。

 “戦の形を変えた”だけだ」


「……形を変えた」


「うむ。

 冬の陣は終わった。

 だが夏の陣が来る」


 私は息を呑んだ。


「……家康殿。

 それは確定ですか」


「確定ではない。

 だが“流れ”だ」


 家康殿は静かに言った。


「天海。

 時代には流れがある。

 流れは、

 人の意思では止まらぬ」


「……豊臣は、

 流れに逆らっております」


「そうだ。

 だから沈む」


---


 私は深く頭を下げた。


「家康殿。

 和睦は、

 豊臣の滅びを遅らせるのではなく──」


「“滅びの形を決める時間”だ」


 家康殿は頷いた。


「天海。

 お前は江戸にいよ。

 大坂が揺れる時こそ、

 江戸は揺れてはならぬ」


「承知しました」


 家康殿は背を向け、

 静かに言った。


「天海。

 これは終わりではない。

 “終わりの前の静寂”だ」


 私はその言葉を胸に刻んだ。


「……夏が来る」


 江戸の空は静かだった。

 だがその静寂は、

 確かに“嵐の前”の静けさだった。


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