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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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第11話 影の旅路

 東の風は冷たかったが、どこか澄んでいた。

 川沿いの道を歩きながら、私は懐の黒い布を指先で確かめた。

 その黒は、朝の光を吸い込み、深く沈んでいる。


 ──宗易。


 先ほど名乗ったその名は、まだ仮の名にすぎぬ。

 だが、惟任日向守でも光秀でもない“別の誰か”として歩き出したのは確かだった。


 渡し場で助けた女の姿が脳裏に浮かぶ。

 名を捨てた者が、他者を助ける理由などない。

 だが、体は勝手に動いた。


 影にも、影なりの倫理があるのかもしれぬ。


 川の流れを横目に見ながら歩いていると、やがて道が二手に分かれた。

 一方は京へ戻る道。

 もう一方は、東国へ続く街道だ。


 私は迷わず東の道を選んだ。


 家康の影が、東から伸びている。

 ならば、その影の先へ向かわねばならぬ。


 しばらく歩くと、小さな茶畑が広がる丘に出た。

 朝露が葉に光り、風が静かに揺らしている。

 その美しさに、思わず足を止めた。


 ──かつて、こんな景色を眺める余裕があっただろうか。


 光秀としての私は、常に策を巡らせ、戦の気配に耳を澄ませていた。

 だが今は、ただ風の音が聞こえるだけだ。


 その静けさが、胸に沁みた。


 丘を下りると、道端に小さな祠があった。

 苔むした石の上に、供え物の跡が残っている。

 私は祠の前に立ち、手を合わせた。


 ──名を捨てた者にも、祈りは必要か。


 そんな問いが胸に浮かんだ。

 祈りとは、名のある者だけのものではない。

 影にも、影の祈りがある。


 祠の前で静かに目を閉じていると、背後から声がした。


「……旅の方」


 振り返ると、旅装束の老人が立っていた。

 杖をつき、背は曲がっているが、目は鋭い。


「この道を東へ行かれるのですか」


「はい。少し、縁がありまして」


「東は荒れておりますぞ。

 家康様が動いておられるとかで、兵が行き交っております」


 老人は周囲を見回し、声を潜めた。


「それに……妙な噂もある」


「噂?」


「明智光秀は、本当に死んだのか、と」


 私は息を呑んだ。


 老人は続けた。


「首は上がったと聞きましたが、顔が崩れていて、判別が難しかったとか。

 “影武者ではないか”と囁く者もおります」


 私は静かに答えた。


「……死人が歩くことなど、あり得ませぬ」


「そうですな。

 だが、世は乱れております。

 死人が歩いても、不思議ではない」


 老人はそう言って笑った。

 その笑いは、どこか寂しげだった。


「旅の方。

 名を聞いてもよいですかな」


 私は一瞬だけ迷い、答えた。


「……宗易と申します」


「宗易殿。

 どうかお気をつけて。

 東の風は、今、妙に冷たい」


 老人は祠に手を合わせ、ゆっくりと去っていった。


 私はしばらくその背を見送り、再び歩き出した。


 ──光秀は死んだ。

 だが、噂は消えていない。


 それは危険でもあり、同時に“道”でもあった。


 道を進むと、やがて小さな集落が見えてきた。

 煙が上がり、子どもたちの声が聞こえる。

 私は集落の外れにある井戸のそばで足を止めた。


 そのとき、背後から声がした。


「……そこの方。旅の人ですか」


 振り返ると、若い僧が立っていた。

 まだ二十代ほどだろう。

 黒ではなく灰色の衣をまとい、穏やかな目をしている。


「少し、お尋ねしたいことがありまして」


「何でしょう」


「このあたりで……“宗易”という名の旅人を見かけたと聞きました」


 私は息を呑んだ。


 僧は続けた。


「その方に、どうしても伝えたいことがあるのです。

 東国で、大きな動きが始まろうとしている、と」


 私は静かに答えた。


「……その宗易という者に、会えばよいのですな」


「はい。

 もしご存じでしたら、どうかお伝えください。

 “影の道は、東へ続いている”と」


 僧は深く頭を下げ、集落の方へ歩いていった。


 私はしばらく動けなかった。


 ──影の道は、東へ続いている。


 その言葉は、まるで私の胸の奥を見透かしているようだった。


 私は懐の黒い布を握りしめ、東の空を見上げた。

 雲が薄く流れ、光が差し込んでいる。


 惟任日向守としての死を背負いながら、

 宗易としての旅が、確かに始まっている。


 私は静かに歩き出した。

 東の風が、影を押すように吹いていた。


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