第109話 戦の匂い
大坂の空気が荒れ始めてから、
まだ数日しか経っていない。
だが──
その変化は、
江戸にいてもはっきりと感じられた。
私は江戸城の一室で、
大坂から届いた密書を読んでいた。
「……浪人、続々と大坂へ集まる」
普請奉行が青ざめた顔で言った。
「天海様。
これは……戦の準備では?」
「まだだ。
だが“戦の匂い”はする」
私は文を畳んだ。
浪人たちは、
豊臣家のために集まっているのではない。
“戦”のために集まっている。
その気配が、
文の行間から滲み出ていた。
その時、
家康殿が入ってきた。
「天海。
大坂はどうだ」
「揺れております。
浪人が集まり、
淀殿は焦り、
秀頼は迷い、
城内は騒然としております」
「うむ。
予想通りだ」
家康殿は椅子に腰を下ろし、
静かに言った。
「天海。
浪人が集まる時、
戦は避けられぬ」
「……まだ戦は始まっておりません」
「始まっておらぬだけだ。
“始まる理由”は揃っている」
私は息を呑んだ。
「家康殿。
浪人たちは、
豊臣のために集まっているのではありません」
「そうだ。
“戦”のためだ」
家康殿の声は低かった。
「戦を望む者が集まれば、
戦は自然と起きる。
理由など、あとからついてくる」
私は文を開き、
大坂の状況を読み上げた。
「“豊臣の旗の下に集え”
“徳川を討て”
“戦こそ武士の本懐”
浪人たちは、
このように叫んでおります」
「うむ。
血の匂いがする」
家康殿は目を閉じた。
「天海。
戦は、
血の匂いに集まる者がいる時に起きる」
「……大坂は、
血の匂いを放ち始めております」
「そうだ。
そしてその匂いは、
江戸にも届いている」
私は静かに言った。
「家康殿。
大坂は、
自ら戦を呼び込んでおります」
「うむ。
豊臣は“滅びの形”を選びつつある」
家康殿は続けた。
「天海。
戦を避ける道は、
もはや細い」
「……まだ避けられますか」
「避けられる。
だが、
豊臣がそれを望まぬ限りは無理だ」
私は文を見つめた。
淀殿の焦り。
秀頼の迷い。
浪人たちの血の匂い。
その全てが、
ひとつの方向へ向かっていた。
「……戦へ」
「そうだ」
家康殿は立ち上がり、
窓の外の江戸を見下ろした。
「天海。
江戸は光だ。
大坂は影だ。
影が濃くなれば、
光は強くなければならぬ」
「承知しました」
「江戸を揺らすな。
大坂が揺れる時こそ、
江戸は揺れてはならぬ」
私は深く頭を下げた。
「江戸の心、
必ず整えてみせます」
その時、
使者が駆け込んできた。
「家康公!
大坂より急報!
浪人たち、
“城の堀を埋めるな”と叫び、
城下で暴れ始めております!」
家康殿は微動だにしなかった。
「……堀を埋める話が出たか」
私は息を呑んだ。
「家康殿。
これは……」
「戦の前兆だ。
堀を埋めるかどうかは、
戦をするかどうかの境目だ」
家康殿は静かに言った。
「天海。
大坂は、
自ら戦を選びつつある」
「……避けられぬのですね」
「避けられぬ。
だが、
まだ“形”は選べる」
私は深く頭を下げた。
「その形、
必ず見極めます」
家康殿は頷いた。
「天海。
戦はまだ始まっておらぬ。
だが──
“匂い”はもう漂っている」
私は窓の外を見た。
江戸の空は静かだった。
だがその静寂の奥で、
確かに何かが動き始めていた。
「……戦の匂いがする」
大坂の影は濃く、
江戸の光は強く。
そして──
時代は、
静かに戦へ向かっていた。




