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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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第108話 策と理

 大坂の空気は、

 日に日に荒れていた。


 片桐且元の追放騒ぎは、

 豊臣家の内部に深い亀裂を生み、

 浪人たちは血を求めて騒ぎ、

 淀殿は焦り、

 秀頼は迷っていた。


 その報せが江戸に届いた日、

 私は家康殿に呼ばれた。


「天海。

 大坂はどう見える」


「……崩れ始めております。

 しかし、まだ“戦”ではありません」


「うむ。

 だが、戦にすることはできる」


 私は息を呑んだ。


「……家康殿。

 戦を望まれるのですか」


「望まぬ。

 だが“必要ならば”行う」


 家康殿の声は静かだったが、

 その奥に鋼のような意志があった。


「天海。

 豊臣は、

 もはや時代の邪魔だ」


「……邪魔」


「そうだ。

 豊臣がある限り、

 大名は迷う。

 民も迷う。

 時代が揺らぐ」


 私は静かに言った。


「ですが家康殿。

 豊臣は、

 すでに力を失っております。

 滅ぼす必要は……」


「ある」


 家康殿は私の言葉を遮った。


「天海。

 影は消さねばならぬ。

 影が残れば、

 光は揺らぐ」


 私は初めて、

 家康殿の言葉に違和感を覚えた。


「……家康殿。

 影を消すために、

 光が血を流すのは本末転倒ではありませんか」


「違う」


 家康殿は首を振った。


「泰平とは、

 “揺らぎを許さぬ世”だ。

 揺らぎの種は、

 早いうちに摘む」


「しかし──」


「天海。

 お前は優しすぎる」


 その言葉は、

 家康殿が私に向けた初めての“批判”だった。


「優しさではありません。

 理です」


「理?」


「はい。

 豊臣を攻めれば、

 大坂は燃え、

 民が死に、

 浪人が散り、

 恨みが残ります」


 家康殿は黙って聞いていた。


「恨みは、

 百年残ります。

 それは泰平の毒となります」


 家康殿は目を閉じた。


「……天海。

 お前は“心”を見る。

 それは良い。

 だが、わしは“時代”を見る」


「時代は心で動きます」


「違う。

 時代は“形”で動く」


 家康殿の声は低く、

 だが揺るぎなかった。


「豊臣という形を残せば、

 時代は揺らぐ。

 だから消す。

 それだけだ」


 私は言葉を失った。


 家康殿の言葉は冷たく、

 だが正しかった。


 しかし──

 正しさだけでは、

 時代は続かない。


「家康殿。

 豊臣を滅ぼすことは、

 時代を安定させるかもしれません。

 ですが──

 “徳川の時代”を短くします」


 家康殿の目がわずかに動いた。


「……どういう意味だ」


「恨みは、

 必ず形になります。

 豊臣を滅ぼせば、

 その恨みは徳川に向かう。

 それは、

 百年後の火種となります」


 家康殿はしばらく黙っていた。


 そして、

 静かに言った。


「天海。

 お前の言うことはわかる。

 だが──

 わしは“今”を治めねばならぬ」


「私は“未来”を見ております」


「未来は、

 今の上に立つ」


 家康殿は立ち上がり、

 窓の外の江戸を見下ろした。


「天海。

 豊臣は滅びる。

 それは時代の流れだ。

 わしが動かずとも、

 いずれ滅びる」


「ならば、

 急ぐ必要はありません」


「急ぐ必要はある」


 家康殿は振り返った。


「豊臣が滅びる前に、

 江戸を“揺るぎない都”にせねばならぬ。

 そのためには──

 豊臣を消す」


 私は深く息を吸った。


「……家康殿。

 それは“策”です。

 しかし、

 “理”ではありません」


「策で十分だ」


 家康殿は言い切った。


「天海。

 お前は理を語る。

 だが時代は、

 理だけでは動かぬ」


 私は静かに頭を下げた。


「……承知しました。

 ですが家康殿。

 私は、

 豊臣の“滅びの形”だけは整えさせてください」


「形?」


「はい。

 滅びるにしても、

 恨みを残さぬ形がある。

 それを選ばせます」


 家康殿はしばらく黙り、

 やがて頷いた。


「……よい。

 天海。

 お前に任せる」


 私は深く頭を下げた。


「必ずや」


 家康殿は背を向け、

 静かに言った。


「天海。

 お前は“理”を守れ。

 わしは“時代”を動かす」


 私はその背中を見つめながら、

 静かに呟いた。


「……理と策。

 どちらも必要だ」


 江戸の光は強く、

 大坂の影は深く。


 そして──

 家康と天海の間にも、

 初めて“影”が落ちた。


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