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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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106/156

第106話 影の都

 江戸に幕府が開かれるという報せは、

 瞬く間に全国へ広がった。


 そして──

 その波は、大坂にも届いた。


 私は江戸城の一室で、

 大坂から届いた密書を読んでいた。


「……大坂は、揺れている」


 普請奉行が不安げに言った。


「天海様。

 豊臣家は、どう動くのでしょうか」


「動かぬ。

 だが“揺れる”。

 それが一番厄介だ」


 私は文を畳み、

 静かに目を閉じた。


 大坂の空気が、

 江戸にいても伝わってくるようだった。


 豊臣家は、

 まだ滅んでいない。


 だが──

 “時代から取り残されつつある”。


 その時、

 家康殿が入ってきた。


「天海。

 大坂はどうだ」


「揺れております。

 淀殿は焦り、

 秀頼は迷い、

 浪人たちは騒いでおります」


「うむ。

 予想通りだ」


 家康殿は椅子に腰を下ろし、

 静かに言った。


「天海。

 豊臣は、

 わしが攻めずとも滅びる」


「……滅びの形を選べぬ、ということですか」


「そうだ。

 時代に取り残された者は、

 自ら崩れる」


 私は息を呑んだ。


「家康殿。

 では、豊臣は……」


「まだ滅びぬ。

 だが“滅びの道”に入った」


 家康殿は続けた。


「天海。

 大坂は江戸の光を見ている。

 光が強ければ強いほど、

 影は濃くなる」


 私は静かに言った。


「……江戸が立ったことで、

 大坂は影になったのですね」


「そうだ。

 そして影は、

 光を憎む」


 家康殿の声は低かった。


「淀殿は焦っておる。

 秀頼は若く、

 浪人たちは血を求める。

 この三つが揃えば──

 戦になる」


 私は文を開き、

 大坂の状況を読み上げた。


「淀殿、

 “徳川に屈するな”と叫ぶ。

 秀頼、

 “戦は避けたい”と語る。

 浪人たち、

 “豊臣の旗を掲げよ”と煽る」


 家康殿は目を閉じた。


「……三者三様。

 だが、

 それが一番危うい」


「はい。

 方向が揃わぬ組織は、

 外からの力で簡単に崩れます」


「そうだ。

 豊臣は、

 もはや“家”ではない。

 “影”だ」


 家康殿は立ち上がり、

 窓の外の江戸を見下ろした。


「天海。

 江戸は光だ。

 大坂は影だ。

 光と影は、

 必ずぶつかる」


「……避けられぬのですね」


「避けられぬ。

 だが、

 急ぐ必要はない」


 家康殿は静かに言った。


「豊臣は、

 自ら動く。

 その時が“終わり”だ」


 私は深く頷いた。


「家康殿。

 では我らは……」


「江戸を整える。

 それだけでよい」


 家康殿は続けた。


「大坂が揺れれば揺れるほど、

 江戸は揺れてはならぬ。

 江戸が揺らげば、

 天下が揺らぐ」


 私は胸の奥が熱くなるのを感じた。


「……江戸の心を整えることが、

 豊臣との戦よりも重要なのですね」


「そうだ。

 戦は一度で終わる。

 だが心は、

 百年続く」


 その時、

 使者が駆け込んできた。


「家康公!

 大坂より急報!

 淀殿、

 “徳川は豊臣を滅ぼす”と叫び、

 城内が騒然としております!」


 家康殿は微動だにしなかった。


「……始まったか」


 私は息を呑んだ。


「家康殿。

 これは……」


「まだ戦ではない。

 だが“戦の影”だ」


 家康殿は私を見た。


「天海。

 江戸を整えよ。

 大坂が揺れる時こそ、

 江戸は揺れてはならぬ」


「承知しました」


 家康殿は静かに言った。


「天海。

 豊臣は滅びる。

 だが──

 滅びの形は、

 まだ選べる」


 私は深く頭を下げた。


「……その形を、

 見極めてみせます」


 家康殿は頷き、

 背を向けた。


「天海。

 江戸は光だ。

 光は影を照らす。

 影が濃くなるほど、

 光は強くなければならぬ」


 私はその言葉を胸に刻んだ。


「……江戸の光を、

 強くする」


 大坂の影は濃く、

 江戸の光は強く。


 時代は、

 静かに動き始めていた。


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