第10話 名を問う声
東の空が白み始め、川沿いの道に薄い光が落ちていた。
私は歩きながら、懐の黒い布を指先で確かめた。
その黒は、朝の光を吸い込み、深く沈んでいる。
──光秀は死んだ。
その事実が、歩くたびに胸の奥で静かに響く。
惟任日向守としての死が世に広まり、追手の動きも止まった。
私はようやく“死者”として世界に戻ったのだ。
だが、死者には名がない。
名を捨てた者は、ただ影として歩くしかない。
川沿いの道を進むと、やがて小さな渡し場が見えた。
舟は一艘だけ、岸に繋がれている。
渡し守の姿はない。
朝餉の支度でもしているのだろう。
私は舟のそばに腰を下ろし、川の流れを眺めた。
水面に映る自分の顔は、もはや惟任日向守でも光秀でもなかった。
名を捨て、影として生きる者の顔だ。
そのとき、背後から悲鳴が聞こえた。
「やめてください! 荷は全部差し上げますから!」
私は反射的に立ち上がった。
声は渡し場の裏手、林の方からだ。
木々の間から、旅装束の若い女が逃げてくるのが見えた。
その後ろを、二人の男が追っている。
落ち武者狩りか、あるいはただの盗賊か。
「待て! その荷を置いていけ!」
女は必死に走っていたが、足がもつれ、地面に倒れ込んだ。
男たちが迫る。
──関わるな。
そう思った。
名を捨てた者は、誰のためにも戦えぬ。
影は、光の下に立つ者を守ることはできない。
だが、足は勝手に動いていた。
私は渡し場の杭を引き抜き、男たちの前に立ちはだかった。
「……何の真似だ、あんた」
男の一人が刀を抜いた。
私は杭を構え、静かに息を吸った。
「その者を放せ」
「は? 旅の浪人風情が口を出すな!」
男が斬りかかってきた。
私は杭で受け、体をひねって男の腕を払った。
刀が地面に落ちる。
もう一人が背後から襲いかかるが、私は杭を振り抜き、男の膝を打った。
二人は呻き声を上げ、逃げるように林の奥へ消えていった。
私は杭を地面に置き、女に手を差し伸べた。
「怪我はないか」
「……はい。助けていただき、ありがとうございます」
女は震える声で言った。
旅の商家の娘だろうか。
荷物は散乱していたが、命に別状はなさそうだ。
「あなたは……どなたですか」
その問いに、胸がわずかに痛んだ。
惟任日向守ではない。
光秀でもない。
だが、名を名乗らぬわけにもいかぬ。
私は静かに口を開いた。
「……名乗るほどの者ではない。
ただの、行き倒れの……」
言いかけて、言葉が止まった。
──次の名。
僧の言葉が胸に蘇る。
私はわずかに息を吸い、言った。
「……宗易と申す」
それは、咄嗟に出た名だった。
だが、不思議と胸に馴染んだ。
影として生きる者にふさわしい、静かな名。
女は深く頭を下げた。
「宗易様……本当に、ありがとうございました」
私は首を振った。
「礼は不要だ。
ただ、早くここを離れた方がよい。
このあたりは物騒だ」
女は荷をまとめ、渡し場の方へ向かった。
私はその背を見送り、静かに息を吐いた。
──宗易。
その名は、まだ仮の名にすぎぬ。
だが、影として生きるための最初の一歩だった。
川の流れが、朝の光を反射して揺れている。
私は懐の黒い布を握りしめ、東の道へ歩き出した。
惟任日向守としての死を背負いながら、
私は確かに“次の名”へ向かって歩き始めている。
東の風が、静かに吹いていた。




