第1話 名を捨てる夜
私は、この夜に死んだ。
山崎の敗走は、惟任日向守としての名も、武家としての矜持も、泥と血の匂いに呑み込んでいった。
天王山の影が夜気に沈み、湿った風が頬を撫でる。
淀川から立ち上る水気が肌にまとわりつき、敗走する兵の叫びが遠くで千切れ、闇に吸い込まれていく。
馬の嘶き、折れた槍の転がる音、血に濡れた草の匂い──すべてが敗者の世界を形づくっていた。
私は馬を捨て、竹林の闇へ踏み込んだ。
草を踏むたび、靴底にぬめりが絡みつく。
それが血か泥か、もはや判別できぬ。
視界は揺れ、胸の奥では、理想と罪がぶつかり合っていた。
──本能寺の変は、誤りだったのか。
その問いは、逃げる私の背に絡みつき、離れようとしない。
だが、あの日、私は確かに理想を掲げた。
天下の形を変えるため、己の命を賭した。
その理想が、今や私を追い詰める鎖となっている。
家族の顔が脳裏をかすめた。
煕子、玉……。
彼女らの笑顔は、泥に沈む兵の呻きよりも胸を刺した。
私は彼女らを守れたのか。
それとも、巻き込んだだけなのか。
「日向守様……!」
背後から老臣の声がした。
振り返ると、彼は肩で息をしながら、必死に私を追ってきていた。
その顔には、忠義と恐怖と、言葉にできぬ悲しみが入り混じっていた。
「こちらへ……追手が迫っておりまする……!」
竹林の奥から、犬の吠え声が響いた。
敵の追跡犬だ。
その声は、私の首を求める世の声そのものに聞こえた。
さらに、複数の足音が湿った地面を踏みしめる音が近づいてくる。
草をかき分ける音、甲冑が触れ合う金属音、低く交わされる声。
闇の向こうで松明が揺れ、竹の影が不気味に伸び縮みした。
私は思わず息を呑んだ。
胸の鼓動が、竹林の静寂を破るほど大きく響く。
このままでは、すぐにでも見つかる。
私は老臣に向き直った。
「惟任日向守は、ここで終わる」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
だが同時に、奇妙な静けさが満ちた。
名を捨てるとは、過去の自分を殺すことだ。
懐から一枚の紙を取り出す。
そこには、私の首を討ち取ったとする偽の報告が記されている。
筆跡も印も整えた。
この紙が、私の“死”を世に告げる。
「これを届けよ。世は、光秀の死を望んでおる」
老臣は震える手で紙を受け取った。
その手は、私の過去を抱えたまま震えていた。
「殿……本当に、これで……」
「行け。おぬしまで死ぬ必要はない」
老臣の目に涙が滲んだ。
彼は深く頭を垂れ、私の前から去っていった。
その背が闇に溶けるのを見届けたとき、胸の奥にぽっかりと穴が開いた。
私はひとり、山の奥へ歩き出した。
霧が濃くなり、世界の輪郭が曖昧になる。
影が揺れ、私の影も揺れる。
まるで、私という存在そのものが薄れていくようだ。
追手の足音がさらに近づく。
犬の吠え声が鋭くなり、竹の葉が震えた。
私は息を潜め、竹の影に身を寄せる。
わずかな動きでも、命取りになる。
夜気が冷たいはずなのに、背中を汗が伝った。
──名を捨てれば、人は何者になるのか。
その答えは、まだ見えぬ。
だが、この夜を境に私は“光秀”ではなくなる。
惟任日向守としての死は、すでに確定した。
そして、黒衣の僧として歩む未来が、静かに形を成し始めていた。
影として生きる道を、私は選んだのだ。
私は二度目の死へ向かう。
その先に、もう一つの名が待っている。




