沈黙の預金
第1章:蟻の一穴
1994年(平成6年) 夏
その年の夏、福島県いわき市の湿った海風は、アスファルトを焦がすような熱気と、鼓膜を引き裂くような怒号を運んできた。
午前8時30分。海陸信用組合の本店営業部。
シャッターが開くのと同時に、その「音」は始まった。
『……聞いてください、市民の皆さん! こちらの海陸信用組合、理事長の権田勇夫は、神聖なる金融機関のトップにありながら、その裏で暴力団と癒着し、私利私欲を貪る国賊であります!』
大音量のスピーカーから吐き出される軍歌と、割れたような怒声。
漆黒に塗装された大型バスやワンボックスカーが数台、隊列を組んで本店前の通りをゆっくりと周回していた。車体には白抜きの文字で「憂国」「天誅」といった文字が踊り、屋根には巨大なスピーカーと日章旗が威圧的に掲げられている。
総務課長の梶山二郎は、本店3階の総務課オフィスから、ブラインドの隙間越しにその光景を見下ろしていた。
窓ガラスは二重になっているはずだが、腹に響くような重低音と罵声は容赦なく侵入してくる。
「……また来やがったか」
梶山は、吸いかけのタバコを灰皿に押し付けた。指先が微かに震えているのは、怒りか、それとも終わりのない騒音による疲弊か。
通りを見下ろす彼の視界の中で、銀行に入ろうとした老婦人が、街宣車の威圧感に怯えて引き返していくのが見えた。
「課長、警察は……まだ動かないんですか」
背後から声をかけたのは、入組してまだ数年の若手職員、江藤(モデル:e氏)だった。
理事長車の運転手を兼務する江藤は、連日の街宣活動で神経をすり減らしていた。彼の業務である「理事長の送迎」は、今や戦場への輸送任務に等しかった。自宅を出れば罵声を浴びせられ、本店に着けばカメラを向けられる。
「警察か」
梶山は鼻で笑った。「さっき所轄の生活安全課から電話があったよ。『音量は条例の範囲内ギリギリだ。具体的な暴力行為がない限り、民事不介入の原則もあって手出しできない』だとさ」
「そんな……。営業妨害じゃないですか」
「連中はプロだ。法律のギリギリの線を熟知してやってる。俺たちが音を上げて、向こうのテーブルに着くのを待ってるんだよ」
梶山の言葉通り、右翼団体を名乗る彼らの攻撃は執拗かつ巧妙だった。
標的は本店だけではない。理事長である権田勇夫(モデル:勇夫氏)の自宅周辺でも、早朝から同様の街宣活動が行われていた。
「権田を出せ」「説明しろ」というシュプレヒコールは、権田家だけでなく、静かな住宅街の平穏を完全に破壊していた。近隣住民からの苦情の電話は、銀行の代表電話をパンクさせる勢いだった。
『権田理事長! あなたが裏で暴力団幹部の××と盃を交わしたという噂、火のない所に煙は立ちませんぞ!』
スピーカーの声が、具体的な個人名を挙げ始めた。
オフィス内の空気が凍りつく。職員たちは伝票をめくる手を止め、不安げに顔を見合わせた。
バブル崩壊から数年。地元の景気は冷え込み、焦げ付いた融資の回収に追われる中で、海陸信組の一部役員が地元の暴力団関係者と親密な関係にあることは、行内でも「公然の秘密」として囁かれていた。
街宣車が叫んでいることは、単なる言いがかりではなく、膿んで熟しきった組織の核心を突いていたのだ。
内線電話が鳴った。
江藤が受話器を取る。
「はい、総務課です。……あ、はい。すぐに」
江藤は受話器を置き、強張った顔で梶山を見た。
「課長、理事長がお呼びです。……応接室へ」
梶山は深いため息をつき、スーツの上着を羽織った。
「江藤、お前も来い。車の回し方について指示があるかもしれん」
二人は重苦しい空気が漂う廊下を歩き、役員応接室へと向かった。
分厚いマホガニーのドアの向こうには、疲れ果てた権田理事長と、もう一人の人物が待っていた。
それは、この騒音地獄を終わらせるための「毒薬」を持参した男だった。




