第4話 逃亡の始まり
二人は地図を手に獣道を北に進んだ。街道を避け、湿った土と落ち葉を踏みしめる。魔物や獣に会わないよう、耳を澄ませながら足を動かす。
「おねぇ……アリシア王女。疲れは大丈夫?」
レオの声には心配が滲んでいた。昨日の激闘から一夜、疲労が残る中での逃避行は過酷だ。
「大丈夫だ。レオはどうだ?」
「うん。まだ大丈夫」
街を出てから、既に10時間以上歩き続けていた。普段は互いに馬に乗って移動する身であるが、今は徒歩である。しかも昨日の戦闘の消耗も残っていた。両者とも息遣いに疲れがにじむ。
「その歳でなかなかの体力だな。それと……お姉ちゃんと呼ぶことを許したんだぞ?もう呼びたくないのか?」
彼女の表情には、からかうような笑みが混ざっていた。
「……ずっと呼んでいると癖になりそうで」
実際にはレオは少し恥ずかしがっていた。彼女は本当の姉では無い。昨夜は勢いで願望が口から出てしまったが、時間が経ち冷静になると、いくら同じ見た目とはいえ、他人である彼女を姉と呼ぶのが恥ずかしくなる。
「そうか?まぁ、好きに呼んで良いぞ。あと二人きりの時は王女や殿下も付けなくて良い。いいな?」
「うん……わかった。アリシア」
彼女の振る舞いに、レオの心が軽くなっていた。だが、心の奥では王国を捨てた罪悪感が湧いていた。あの世の姉は今の自分をどう思うか考えると怖かった。
ーーーーーーーーー
日も傾き始め、森は薄闇に包まれた。周囲に人の気がない夜間の森を進むのは危険が大きい。
「レオ。今日はあの洞窟で夜を明かそう。進むのはまた朝になってからだ」
アリシアが指差したのは苔むした岩に囲まれた洞窟だった。狭そうだが、二人が隠れるには十分そうだった。
「そうだね。じゃあ中を確かめてくるよ」
レオは剣を握り、進もうとした。洞窟には魔物や山賊が隠れている場合がある。誰かが確認してから使用するのが常だ。しかし、その際に襲われる事も多い。そんな場所に王女のアリシアを先行させる訳にはいかなかった。
「いや待て、私も確認する。何と言っても今の私はレオの【お姉ちゃん】なんだからな。弟だけに危険な事はさせないよ」
「けど……」
「ほら、レオついてこい」
アリシアはレオの戸惑う姿を可笑しく思う、彼が自分を姉と重ねている事を理解しているが、王女を姉と見ることに葛藤している。そうして、彼が自身の感情に戸惑ってる姿を見ると愛らしい。
洞窟は冷たく湿り、岩の表面には水滴が光っていた。二人は奥を確かめ、獣の痕跡も人の気配も無いことを確認した。
「よし、大丈夫そうだな」
洞窟の奥で、焚き火が音をたて、橙色の光が岩壁を照らした。アリシアは岩の出っ張りに腰を掛けると、隣を叩いて、レオを招く。
「さぁ、レオ食事にしよう。こっちにおいで」
「……うん。お姉ちゃん」
アリシアがあまりにも姉アリアに見え、レオは自然に隣に座った。焚き火の温もりが、疲れた体をほぐす。
「本当にお姉ちゃんみたいだ……」
レオの呟きにアリシアは微笑んだ。彼女はふと、レオのペンダントの写真を思い出した。自分と瓜二つの女性、アリア。彼女の事が気になって仕方なかった。
「なぁ、レオ。アリアはどんな人だったんだ?少し気になるな」
アリシアの声は柔らかく、どこか切なげだった。
「アリアお姉ちゃんは……」
「いや、勿論、辛いなら話さなくても良いぞ」
「ううん。大丈夫。アリアお姉ちゃんはね……。俺の全てだったんだ……」
レオは話し始める。6歳で両親を失い、姉アリアと二人きりで過ごした思い出の日々。彼女はいつも優しく、愛情たっぷりに接してくれた。どんな時もそばにいてくれ、家族二人きりでも寂しくなかったし辛くなかった。美しくて、強くて、慈愛に満ちた姉は、レオの憧れであり、唯一の家族だった事。
「そうか、強い女性だったんだな……レオはアリアの事を尊敬していたんだな」
「うん。お姉ちゃんは俺とは比べ物にならないくらい凄かった。最年少なのに騎士学校を首席で卒業したし、最期は中隊長代理を務めていたよ……。破格の出世だった」
「それは凄いな。だがレオ。君も立派だと思うぞ。10歳でそんな喪失を味わい。乗り越えて騎士になった。きっとアリアにとっても誇らしい弟だと思うぞ」
「そうかな?」
「きっとそうだ。アリアにとっても大好きで、誇らしい弟だったと思うぞ?」
アリシアの言葉に、レオの瞳が潤んだ。
「けどね。最後に俺、お姉ちゃんに酷いことをしちゃったんだ……」
姉が出征する前夜、いつもの様に姉は「一緒にお風呂に入ろう」と誘った。ただその日、レオは近所の子に姉と風呂に入っていることを揶揄われた事で、恥ずかしがり、拒絶してしまった。その時の姉の寂しげな顔が今でも鮮明に思い出せる。結局その日は寝るのも別々になった。
「ふふ、なんだその照れ臭い話は?10歳のレオが恥ずかしがるのも無理は無いさ」
「翌朝、考え直して謝ったんだ。帰ってきたらまた一緒に入って、一緒に寝るって約束した……」
「帰って来たら一緒に風呂か……。純粋で良い約束じゃないか。レオの後悔した気持ち、しっかりアリアには届いていたと思うぞ」
「ただ、果たせなかったけどね……」
出征するとは言ってもいつも通り元気で帰ってくると思っていた。他人に揶揄われたくらいで姉とのスキンシップを恥ずかしがった事を後悔した。だから帰ってきたら、また一緒にお風呂に入ろう。一緒に寝よう。そう思っていたのに……
「戻ってきたのは遺書と髪束だけだった……」
レオの声は震えていた。彼の頭をアリシアは優しく撫でる。
「きっとアリアは気にしてはないと思うぞ。多分、遺書だってレオの事を気遣っていたんじゃないか?」
「うん。遺書には色々書いてあったよ……。自由に生きなさいとか、しっかり生活しなさいとか、最後は『お姉ちゃんは死んでもレオに会いに来るからね』って……」
「死んでも、か……アリアにとってもレオの事が大切だったんだな」
アリシアの言葉はレオは少し安心したような表情を見せた。
「うん……」
アリシアは正直、自分自身の事を愛の欠片も知らない冷たい人間だと思っている。王族内での冷たい家族関係で、その様な感情は自分には縁がない。だから自分と似ている女性がこのような家族の温もりを得ていた事がとても羨ましい。
「私はそんなにもアリアに似てるのか?中身は君の姉には及ばない」
「似てるよ。優しい所がそっくりだよ」
「優しいか、レオはいい弟だな」
それからはレオは姉との思い出話をしていた。好きな歌や好きな料理、一緒にした楽しいこと。彼は少しずつ明るくなり、まるで子供のように話していた。
アリシアがふと見るとレオは半分寝かけていた。うとうとしている彼が倒れこみそうになる。アリシアは彼を自分の方に引き寄せ、彼の頭を膝に乗せる。
「ふふ、随分と無防備だな。おやすみ。レオ」
逃避行中とは思えないほど穏やかな時間、アリシアは自分の膝の上で寝ているレオを撫でながら物思いに更ける。
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