竜飼いとはぐれ飛竜(3)
【3】“はぐれ“
尻餅を付いた拍子に下半身を泉に浸けたまま、ナナミカは上空から自分に迫る飛竜を前に目を見開いた。仕事柄、飛竜の蹴爪は見慣れていた。飛竜にも爪の病は多い。治療の手伝いをした事もあるし、直接触った事だってある。
だが、それが自分に向けられたそれは、あんなにも恐ろしく尖っていただろうか。野生の飛竜は獲物を後ろ脚で掴んで、上空まで連れ去ってしまう事があると言うが、あんなもので捕まれたらその前にバラバラになってしまうのではないだろうか。
そう思った途端、背筋が凍ったように冷たく強張り、全身から汗が噴き出した。世界が色と音を失い、赤茶けた蹴爪がゆっくりと近付くのが、いやに色鮮やかに映った。
———やだ。
その場から走って逃げ出そうとするが、脚は浅い泉の底を掻き混ぜるだけで、地面を蹴ってくれない。尻餅を付いていた事に気付いて立ち上がろうとするが、何故か腰が言う事を聞かない。
ただ呆けたようにそこから動けないナナミカを飛竜の影が覆い、
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硬い物同士が衝突する、重く激しい音が窪地中に響き渡った。一拍遅れて、吹き荒れた旋風が泉の水面を叩く。
“はぐれ“の蹴爪がナナミカの身体を捉える直前、横合いから飛び出してきたジェガンが、勢いに任せて体当たりしたのだ。
そのまま普段の穏やかな様子からは想像出来ぬ形相で相手に食らいつくが、硬い鱗が易々とはその牙を通さない。2頭の飛竜は揉み合ったまま、崖に囲まれた狭い窪地の上空を飛び回る。
頭上で巨体同士がぶつかり合い、その衝撃が地を揺らす中、ウルリクは足を縺れさせながらもナナミカの元へ駆け寄った。
「…ナナ!ナナミカ!」
躊躇う事なく泉に足を踏み入れ、動かないナナミカの肩を揺するが、完全に呆然自失の体で、反応がない。
頭上から響く音は激しさを増し、時折ぎぎぃ、ぎぎゃあ、と岩肌を擦り付け合うような音が混ざる。ウルリクの家の竜舎ではあまり聞くことがない、飛竜同士の威嚇音だ。
ここに居ては巻き込まれかねないと判断したウルリクは、小さく毒づくと、彼女の肩の下から手を回して身体を起こさせ、どうにか一番近くにあった岩陰へと身を滑り込ませた。
「ナナ、しっかりしろ!ナナ!」
躊躇いはあったが、頬を軽く叩きながら声を掛けていると、次第にナナミカの目に焦点が戻って来る。
「…ウル、兄さん…?」
「ナナ、良かった、怪我してないか!?」
手早くナナミカの身体を確認し、あちこちがびしょ濡れ、泥だらけではあるが目立った外傷がない事を見て取ると、ウルリクは大きく安堵の息を吐いて、ナナミカの細い身体を抱き締めた。
腕の中で一瞬ナナミカの肩がビクリと震えるが、そのまま縋り付くように顔をウルリクの首元に埋めた。その身体はすぐに極寒の地に放り込まれたかのように、ガタガタと大きく震え出した。
「…兄さ…っ、ひっ、ひりゅ…がっ!」
「…大丈夫、大丈夫だから。大きく息を吸って」
恐慌状態にあるナナミカを少しでも落ち着かせようと、ウルリクは声を掛けながらその背中をさすってやる。
どおん、と振動が伝わり、パラパラと細かな石の破片が降り注いできた。身を隠す岩に当たってカラカラと乾いた音を立てる。
頭上を振り仰ぐウルリクの目に、揉み合う2頭の飛竜が岸壁に衝突した光景が映る。すぐに岩肌を蹴って空中戦を再開する2頭だが、ジェガンの飛び方に異常があるはすぐに見て取れた。両翼の動きが揃っていない。片翼を庇うような不安定な飛び方だ。相手に掴み掛かっていなければ、そのまま墜落しているのではないかと思った。
最初の体当たりか、岩肌に衝突した時かは分からないが、翼を痛めたのだ。
「———ジェガン!!!」
ウルリクの口から咄嗟に悲鳴のような声が漏れ出る。
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その“はぐれ“は勝利を確信していたと言っていいだろう。
ジェガンは比較的大柄で力も強いが、飛竜の代表的な攻撃手段である尻尾を失っており、また手入れされた爪は人と共に生活するには問題ないが、野生のものと比べれば鈍らも同然だ。
加えてナナミカを守るため強引にぶつかってきた時点で、翼にダメージを負っていた。その差は僅かなものだったが、空中で揉み合う度に大きくなり、先程の衝突で決定的になった。
いよいよ飛ぶ事すらままならなくなったジェガンの首元に、“はぐれ“はその鋭い牙を突き立てようとし、
「———ジェガン!!!」
小さな獲物の発した声をその耳が拾い、半ば反射的にそちらに視線を向けた。
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ウルリクの叫びに反応してしまった“はぐれ“の、ほんのささいな隙。その一瞬で、“はぐれ“の首元に、ジェガンは逆に喰らいついていた。全身を硬質の鱗で覆われている飛竜だが、当然、可動部や急所となる部分はその限りではない。
不意を討たれた“はぐれ“が恐慌し、ジェガンを振り解こうと巨体を出鱈目に跳ねさせる。ジェガンはその動きに逆らわなかった。上手く動かない片翼はそのままに、相手の勢いも利用して切り揉むように全身をぐるりと回転させ、岸壁に叩き付けたのだ。その後の着地も何も考えない、捨て身の一撃だ。
凄まじい絶叫が一帯を震わせる。遠心力に耐え切れなかった喉元の皮がぶちぶちと音を立てて千切れ飛ぶ。噴き上がった鮮血がばしゃばしゃと地上へと降り注ぎ、小さな泉を紅く染め上げた。
ジェガンの牙から離れた“はぐれ“の身体は、轟音と共に固い岩肌に激突した。体勢を整える余裕もなく、そのまま多量の岩を巻き込んで地上へと墜落する。
再びの衝撃に、もうもうと土煙が立ち込める。カーテンのように広がって二人が身を隠す岩陰にも届き、ウルリクはナナミカを庇うようにその場で身体を丸めて顔を伏せた。
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そのままの姿勢でやり過ごし、土煙が薄くなった頃を見計らってウルリクは顔を上げた。周囲はまだうっすらと焦茶色の靄が掛かっている。風が吹かないこの場所では、完全に視界が晴れるにはまだ掛かるだろう。
少し口の中に入ったのか、ジャリジャリとした感触は無視して、周囲を見渡す。
「………ジェガン?」
崖際はまだ土煙が濃く、“はぐれ“がどうなったのかは確認出来ない。窪地の中心、泉があった辺りの場所に、赤と茶に塗れた翡翠色の山が見える。ほっとしたのも束の間、靄の中で動かないその姿に、不安が鎌首をもたげる。
「…ナナは」ここにいて、と言い掛け、自分を見詰める大きな瞳が揺れているのに気付く。言葉を飲み込むと、代わりにその手をしっかりと繋ぎ、
「…行こう」
二人、お互いを支え合うようにして歩き出した。
先程までの喧騒が嘘のように、しんと静まり返った窪地を横断して、ジェガンの元へ向かう。
飛び散った泉の水か、それとも飛竜達の流した血か。ついさっきまで咲き誇っていた足元の草花は歩く度にぐちゃり、ぐちゃり、と粘ついた音を立て、まるでこの世の果てに迷い込んでしまったかのように錯覚する。
頭の中が雑然として、思考がまとまらない。踏み出す足もふわふわとして、まるで夢の中を歩いているようだ。
ナナミカと繋いだ掌が熱を帯びて、そこだけが唯一の現実との接点だった。
毎日手入れをしていたジェガンの翡翠色の鱗は、至る所が引っ掻き傷で抉れ、酷い箇所は剥がれ、内側から赤い肉が露出している。ジェガンのものか相手のものかも分からぬ程に血が付着し、砂を被って半端に固まっていた。
「…ジェガン。ジェガン、大丈夫か」
それでも、ウルリクが恐る恐る声を掛けると、ジェガンは土煙の中からのそりと首を持ち上げ、ぐおう、と鳴いた。普段より遥かに小さく弱々しくはあったが、思いの外しっかりとした返事だった。
———良かった。生きてる。
安堵から膝が崩れそうになる。それはナナミカも同じだったらしい。我慢も限界だったのだろう、ぼろぼろと涙を零しなから、ジェガンの首元に縋付く。嗚咽混じりにジェガン、ごめんねぇ、私のために、ごめんねぇ、と呟くのが聞こえた。
「………そうだ、アイツは」
そう思い岸壁の方へ目を向けた時、ガラガラと岩が崩れる音が響き、“はぐれ“が岩を振り落としつつ、土煙の中から鎌首をもたげるのが見えた。
再びの緊張に、身体がぎくりと強張った。
失神でもしていたのか、“はぐれ“は自身の状態を確認するかのようにゆっくりとその身体を起こす。その様子にジェガンもまた身構えるが、満身創痍である事は隠しようがない。“はぐれ“の首元からは未だに血が流れ続けているが、試すように広げた両翼は健在だった。このまま戦えば、飛べるかどうかも怪しいジェガンに勝ち目がないのは明らかだった。
だから、という訳ではないが。
気付いた時には、ウルリクは2頭の飛竜の間に両手を広げた体勢で立ちはだかり、“はぐれ“を睨み付けていた。何も考えなどはない。これ以上自分の大事なものを傷付けさせたくはない、という強い衝動だけがその身体を突き動かした。
それは飛竜にとっては吹けば飛ぶような小さな獲物でしかなかっただろう。だがその時、冷たく光る“はぐれ“の瞳と、決死の想いを宿したウルリクの瞳は、体格差など関係なく真っ向から視線をぶつけ合った。
目を逸したら、その瞬間に自分はあの鋭い牙の餌食になるだろう、そんな確信があった。ピクリとも動けないウルリクの頬を、冷や汗が流れ落ちる。
時間にしたらほんの数秒の事だった。
“はぐれ“がふいと視線を上げる。翼をはためかせ、忌々しげに尻尾で地面を一叩きすると、宙へとその身を躍らせた。巻き起こる風の流れに、僅かに残っていた土煙が散っていく。
そのままウルリク達には目をくれる事なく、高度を上げると崖上へとその姿を消した。
“はぐれ“が姿を消しても、二人と一頭はその場を動けなかった。
たっぷり10秒ほど経って、ようやくウルリクが呼吸を止めていた事を思い出したように、大きく息を吐き出す。
「…二人とも、大丈夫か?」
ナナミカはまだ青褪めていたが、一度堪えていた恐怖を吐き出したのが良かったのか、ウルリクの言葉に気丈にも頷きを返した。ジェガンも身体を起こし、傷の状態を確かめているようだった。
ようやくウルリクの頭も冷静さを取り戻し、これからの事を考える余裕が出来た。
———まずはジェガンの手当てをしないと。それから荷物をまとめて、集落に戻ろう。飛ぶのは難しいから出来るだけ徒歩で。少し距離はあるけど、ジェガンがいれば野生の動物は襲って来ないだろう———
そこまで考えて、恐ろしい可能性に思い至った。
飛竜の縄張り意識は、持ち前の賢さもさることながら、その強い執着心から来ている。特に野生の飛竜は一度縄張りに入った獲物を決して逃さないという。相手はその縄張りを持たない“はぐれ“だが、その場合はどうなのだろうか———分からない。分からないが、飛竜が個体の識別が出来る事は自分がよく知っている。手傷を追わせたその相手をそのまま逃がしてくれるなどと、楽観視出来るような気分ではなかった。
一度は引っ込んだ冷や汗が、再び噴き出して来るのを感じる。それでも、出来るだけ大切な妹分をこれ以上不安にさせたくなくて、ゴクリ、と唾を飲んでから、慎重に言葉を紡いだ。
「…ナナ、ひとまずジェガンの傷を応急処置をしよう。それが終わったらここをすぐに離れるんだ」
ナナミカはうん、と頷いて、
「でも、ジェガン酷い怪我だよ。あんまり無理に動かない方がいいんじゃないかな…」
ナナミカの懸念はもっともだったが、ウルリクはゆっくりと首を振った。
「たぶん、あいつはまた戻ってくる」
ひゅっ、とナナミカが息を飲む。一度はこちらを厄介な獲物だと思って見逃してくれた。だが、もう一回来られたら不味い。
「ジェガンが元気なら飛んで集落まで逃げられるけど、この状態じゃ追い付かれる」
ジェガンの翼は左が上手く動かせないようだ。折れてさえいなければ滑空くらいは出来るかもしれないが、どうしたって集落までは飛べないだろう。
「ここにいたらあいつが戻ってきた時にすぐに見付かる。せめて身を隠せる所まで移動しないと」
でないと、今度こそ確実に死ぬ、とは言えなかった。