竜飼いとはぐれ飛竜(2)
【2】竜鳴き谷
集落の東に位置する広大な峡谷地帯は、竜鳴き谷という名がある。切り立った崖と谷底を走る無数の隘路によって形成された地形は、遥か昔にこの地を流れていた肥沃な河川が大地を削り取った跡なのだと言う。今では地上を流れる河は枯れ果てているが、谷の至る所にある洞窟の奥深くを訪れれば、その名残りを地下水脈の形で見る事が出来る。
谷の名前の由来は、この洞窟を吹き抜けた風が、風の甲高い笛のような音を鳴らす事だ。これが竜飼い達が竜を操る際に用いる竜笛と呼ばれる笛の音に似ている事から、竜鳴き谷と名付けられたと言われる。
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紫色の花弁を咲かせる野草を五株ほど、周りの土ごと掘り返して、丁寧に布で包む。根元のあたりを軽く紐で締めると、ここまでジェガンに運んできて貰った大きめの木箱へ納めていく。
谷底を走る隘路の一つを辿ると行き着くそこは、窪地に湧き水が小さな泉を作り、周囲には多様な植生が見られた。強風と熱気により不毛の地と思われがちな竜鳴きの谷だが、所々にこういった自然豊かな場所も存在する。地元の住人はこうしたスポットの情報を持っていて、ナナミカのように採集に利用したり、ウルリクであれば飛行練習中のちょっとした休憩場所にと、それぞれ有効活用しているのである。
「うん、ここはこんなものかな」
ずっと屈んで作業していたナナミカは、腰を後ろ手に叩きながら身体をぐっと上に伸ばす。その動きに彼女の小さな額に浮かんでいた汗が一滴、頬へと落ちた。高い崖に囲まれ日陰になっているとは言え、無風の状態での作業はやはり暑さが堪える。
「今の花は何に使うんだ?」
腰のポーチから手拭いを取り出して汗を拭いているナナミカに、それまでじっと作業を見守っていたウルリクは興味本位で質問した。
「今のはミグダの花だね。香り付けとか、消臭に使うんだよ。結構匂いがキツイんだけどね」言いながらナナミカは、土汚れのついたままの五指を広げて、ん、と彼の鼻先に突き出す。
意図を理解して明らかに顔を顰めたウルリクだが、おそるおそる、指先に鼻を近付けた。
「う、これは…」
臭い。耐えられない程ではないが、絶妙に鼻を曲げる匂いに、ウルリクは二秒ほどで音を上げた。
「うちでも、もっと匂いのキツイ薬を誤魔化したりとかで使ってるかな」
なるほど、とウルリクは唸った。どこかで嗅いだ気はしたが、これは竜が怪我した時によくお世話になっている軟膏と同じ匂いだ。ジェガンが彼らを降ろした後、窪地の隅で身体を丸めているのにも納得がいった。飛竜の鼻は犬猫程ではないが、人間よりはよく効く。涼しい場所で休憩しているのかと思っていたが、この匂いを避けていたのか。
これを栽培したら病院中がこの匂いになったりはしないのだろうかとウルリクは危惧したが、そこはナナミカの領分だ。あまり深入りする事もなく、その思考を打ち切った。
「さて、どうする?もう一箇所くらい周る時間はあると思うけど」
湧き水で手を濯ぐナナミカに問いかける。そうだなぁ、と彼女が顔を上げた時だった。
幾つかの事が同時に起こった。
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ウルリクは崖の上から射し込む光が翳った気がして、ふと上を見上げた。その眼に崖上から一直線に降りてくる、黒い影が映る。
ナナミカが感じたのは風だ。谷を吹く風ではない。上空からの叩き付けるような風だ。腰を上げようと中途半端な姿勢だった所為でバランスを崩し、きゃっ、と短い悲鳴と共に尻餅を付いた。
ぎゅおおおぅ、とジェガンが叫び声を上げた。一息に翼を広げると、叩き付けるように加速してナナミカの元へと一直線に飛び出す。
崖上から巨大な影が飛び出した。それは空を覆い隠すかのような両翼、長い尻尾、角の生えた蜥蜴のような頭部、前肢はないが頑丈そうな蹴爪を備えた後肢を持っていた。
飛竜だ。
元より大柄なジェガンよりは一回り小さいが、立派な成竜のサイズだ。健在な尻尾を含めれば全長は勝っているだろう。その視線は今、眼下の小さな獲物へと真っ直ぐ向けられている。
本来、飛竜は群れ単位で生活し、縄張り意識が強い。この竜鳴き谷にも野生の飛竜は存在するが、人里に近い場所を営巣地にする事はないし、積極的に縄張りから出て来る事もない。また集落の人間も凡その縄張りは常に把握しており、基本的にお互いが顔を合わせる事はなかった。
だが時折、餌の不足や群れを追い出されたり等の理由で、人里近くまで迷い出る個体がいる。
それは“はぐれ“と呼ばれ、集落の人間から恐れられていた。