竜飼いとはじまりの空
【1.竜属飛竜種】
飛竜種とは竜属のうち比較的小柄で、全長の5割以上を占める翼膜による飛行を得意とするものの総称だ。
小柄とは言え成竜となると小型のものでも翼を広げれば全長8メートル、大型のものは15メートルを越える。
種により多少の違いはあるが、前脚はなく、後ろ脚と尻尾が発達している。野生のものは高空から馬や牛等の小型〜中型の獣を強靭な顎や蹴爪、尻尾による打撃により仕留め食料とする事もある。しかし本来は雑食であり、穀類や果実なども主食とする。
しかし最大の特徴は、幼生から特殊な調教を施す事で、人の手によって飼育出来る点だろう。
古い言葉で《竜の住む土地》の意を持つこの辺境、オルゼリカ領においては、狩猟から輸送、時には戦いの手段にと、古来から共に過酷な環境を生き抜いて来た、人々の生活になくてはならない存在である。
【2.竜の見る景色】
恐る恐る瞼を開けると、眼前には透き通るような空が広がっていた。遮るものは何一つない。どこまでも、どこまでも、一面が見渡す限りの蒼、蒼、蒼。
「これが、竜の見る景色だ」
—--それは、ウルリクの10歳の誕生日、初めて飛竜に乗った時の記憶。父が見せてくれたこの光景を、彼は生涯忘れない。
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当時騎乗したのはジェガンという名の雄竜で、ウルリクと同じ年に産まれた飛竜だった。平均寿命が凡そ50年程の飛竜の中にあっては、人間でいう成人を迎えて少しと言った所。幼竜の頃からウルリクとは兄弟のように育ったせいか、非常に賢く、年若い竜の群れの中ではリーダー的な立ち位置にあった。
当然ながらウルリクとは気心の知れた中で、父が初めてウルリクを乗せる相方に彼を選んだのも、そこを汲んでの事だろう。気難しい飛竜は、慣れない者を背に乗せるのを嫌う場合もあるのだ。
父がジェガンの背に鞍を固定し、命綱を結んでいく。飛び立つ準備が終わると、ウルリクは手を伸ばして脚の下にある翡翠色の鱗に触れた。普段であれば手の届かない背中側の皮膚は、冷たくゴツゴツとした岩のような感触を返してくる。
「ジェガン、今日はよろしくな」
ごぅるるるぅ、と機嫌良く地鳴りのような声で応えたジェガンは、それを合図としたように---実際は後ろに座した父が合図を出したのだろうが---翼を打ち鳴らし、後ろ脚で大地を強く蹴った。長い尾を鞭のようにしならせながら、その身を空へと躍らせる。
「すごい、飛んだ!父さん、飛んでる!!」
舌を噛むのであまり喋らないようにと注意を受けていたのだが、ウルリクの口からはしゃいだ声が勝手に飛び出した。少年にとって初体験となる空の旅への高揚感は、宙に引っ張られるような浮遊感と重なって高まる一方だ。
慣らすようにゆっくり、それでもウルリクが駆け足するよりも遥かに早い速度で家の周囲を一巡した後、父は手綱を操り、ジェガンを家の北側、厩舎を越えた険しい谷側へと向けた。
頬を撫でる風が乾いたものに変わる。ジェガンの大きな翼が風を切る音に混ざって、ぴぅ、と笛のような音が聞こえた気がした。背後の父がぼそりと低い声で告げる。
「ウル、谷を抜ける風が竜笛の壱の音を鳴らしてたら、上向きの風が吹いてる証拠だ。風を捕まえれば、どこまでだって高く翔べる」
寡黙な父にしては饒舌な言葉ではあったが、文字通り上の空であったウルリクはふうん、と相槌を打ち、
「一気に昇るぞ。少し口を閉じておけ」
そこで少年の高揚感は吹き飛んだ。
「っ…!………!!!」
革の耳当て越しにごう、と風が鳴ったと思った時には、空気が壁のように押し寄せてきて、身体が後方へと仰け反った。父が鞍と自分をしっかり固定していなければ、高揚感と一緒にウルリクの身体も宙を舞っていた事だろう。
空の旅を楽しむ所ではない。それほど風に乗った飛竜の速度は圧倒的だった。風に煽られた癖っ毛がバタバタと暴れ回る。目元は頑丈なゴーグルが守ってくれていたが、それでも打ち付ける風に口元が、頬が、ぶるぶると震えて、目を開けていられない。
(…顔が痛い!口が開かない!息ができない!)
それでもずっと憧れだった飛竜への騎乗に、ウルリクの意地のようなものが働いて、せり上がってきた恐怖は唾と一緒にぐっと飲み込んだ。背中に当たる父の体温だけを頼りに、きゅっと目を瞑り、鞍に縋り付くように身体を丸める。顔を下に向けて小さく口を開けると、浅く、小刻みに呼吸をする。
体感では10分にも20分にも感じたが、実際はその半分の時間にも満たなかっただろう。
「着いたぞ」
不意に届いた、父の落ち着いた声。
気付けば、あれほどさかんに唸りを上げていた風の音が静かになっている。静寂に誘われるようにウルリクはゴーグルの中から恐る恐る瞼を開ける。そうして飛び込んで来た光景に目を奪われた。
眼前には透き通るような空が広がっていた。遮るものは何一つない。どこまでも、どこまでも、一面が見渡す限りの蒼、蒼、蒼。
瞬間、ウルリクは先程までの恐怖、高揚、期待、全てを忘れた。背中にある父の存在も、身体の下にある竜の存在さえも忘れ、ただただ目の前の世界に魅入った。
まるで自分が空と同化したように、ふわふわとした感覚だけが残る。世界に自分一人だけが存在するようなそれは孤独に近いものであったが、幼い彼が知る、一人ぼっちの寂しさとは違った。
もっと自由で、もっと気高くて、もっと雄大で。
「これが、竜の見ている景色だ」
その言葉は一粒の雫のようにウルリクの胸の奥にぴちょんと落ちて、染み込んでいった。
【3.竜飼い】
今日もウルリクは竜に跨り、空へと舞い上がる。その傍らに父の姿はない。初めて竜に乗ったあの日から、5年の歳月が流れていた。
「ジェガン、今日もよろしくな」
鞍を固定し、命綱を装着。いつものように相棒の背中をポンポン、と軽く叩く。翡翠色の鱗はざらついた岩のような感触を返し、コンディションに問題のない事を伝えてきた。
手綱を軽く引くと、ごるるぅ、と小さな唸り。それを合図として、ジェガンは翼を大きく打ち付け、力強く大地を蹴った。
飛び立つ時は少し揺れる。飛竜の特徴でもある長い尻尾が、半ば程で切断されている影響だ。それも危うげなくバランスを取り離陸すると、一人と一頭は家の上空を旋回し、谷へと向かう。
同年代と比べて小柄で童顔なウルリクだが、5年前、家業の手伝いに加えて騎乗のトレーニングを欠かさず続けた結果、騎乗服に包まれた身体にはしっかりと筋肉が付いている。谷に吹き抜ける強風にも負けない、彼の密かな自慢だ。
入り組んだ谷の上、崖の凹凸に沿うようにしばらく流していると、ぴぅ、という笛のような音がウルリクの耳朶を打った。
「ジェガン」
ぐごぅ、と返事。手綱を右に軽く引くと、相棒はそちらに向けて翼を打ち鳴らし、全身を弾丸のように細く伸ばして滑空する。頬を撫でる風の感触が硬く鋭いものに変わり、赤茶けた崖の岩肌がぐんぐんと近付く。左右に切り立った崖の細い出口付近に差し掛かった時、暴風と言ってもいい、一際強烈な風が突き抜けた。
バタバタと風に翻弄された癖っ毛が暴れまわる中、ウルリクは慌てず相棒に指示を飛ばす。ジェガンがその厚く大きな翼膜を再び打ち鳴らし、その風を余す事なく捉えた。
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ウルリクの家は代々続く竜飼いの家系である。
竜飼いとは飛竜を調教、育成する技術を持った者達の俗称だ。正式には蓄竜師と呼ばれ、国からの認定を受けて初めて名乗りが許される、れっきとした国家資格でもある。だがウルリクの代になって、この生業も存亡の危機を迎えていた。
隣国の王の代替わりを発端に、大きな戦争が起こったのはウルリクが12歳の時だった。王国内の様々な場面で活躍する飛竜だが、戦場はその最たるものだ。戦闘用に訓練された飛竜とその乗り手達は竜騎士として周辺諸国に恐れられる存在である。集落に軍属の人間は存在しないが、戦火が拡大の様子を見せると、飛竜の世話役として集落の竜飼いをはじめ幾人かに招集が掛けられた。ウルリクの父もそうして戦地へと赴き、還らぬ人となったのだ。
ジェガンが自慢の尻尾を半ばから失ったのもその時だ。父の親友であり、戦地にも同行した竜医の処置がなければ、父と運命を共にしていたかもしれない。
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空気の壁が全身を打ち、下に引っ張られるような感覚。人の身を地に縛ろうとするようなそれらも丸ごと切り裂いて、飛竜の翼が天高く昇っていく。ウルリクはそれを邪魔しないよう、身体を小さくしてやり過ごすだけだ。上昇気流に乗ってしまえば、飛び方は相棒がよく知っている。
時間にして僅か二、三分程。大気の壁を抜けた感触があり、ジェガンは水平飛行へと移った。一息を付いて、ウルリクは目を覆っていたゴーグルを軽く上に押し上げた。
透き通るような空。どこまでも続く蒼。眼前に広がる光景は、初めて見た時と何も変わらず、そこにあった。
父が亡くなってからの3年は決して楽な暮らしではなかった。それでも辺境に生きる者持ち前の逞しさでもって、家業を母と二人三脚で守ってきた。土地や竜達を他の竜飼いに売り渡す話だってあったが、そうはしなかった。ウルリクも母も、父が愛したものを、自分達もまた守りたいと思っていたからだ。
この自由で、気高くて、雄大な世界の中において、人間など、いや飛竜ですらちっぽけなものだ。大切に大切に守ろうとしたものでさえ、蝋燭の火のようにゆらゆらと揺らめいて、強い風が吹けばたちまちに消えてしまう事を、ウルリクはもう知っている。
それでも竜達の見るこの景色を、父の愛したこの景色を、守りたいと願う。だから、大切なものを目に焼き付けて、この腕から零さないように。
ウルリクは、今日も空に舞う。