② 2枚め
月日は流れ、すくすくと育っておりました我が娘は齢3つ、歳のわりにしゃべりも達者、手習いも始めたという頃……。夫にある男性を紹介されました。
クアーク子爵家次男、ステュアートとの出会いは、春の爽やかな香りたちこめる、陽だまりの中でのことでした。いえ、そこは屋敷の応接間でしたので、陽だまりなどありはしないのです。きっとそれは……私の胸の中に。
とは申せ、ステュアートはけして甘い柔らかな印象でなく、陰りのある表情に毅然とした佇まい、なんとも近寄りがたい雰囲気をまとう貴公子でした。それがとてつもなく美しかった。艶めく漆黒の髪は神秘の世界へと通じているよう。遥か遠くを見つめているようなグレーの瞳は、光の加減で青にも緑にもなり、まるで魔力がかった美しさ。少々恐ろしく感じたものです。
なぜ夫が彼に引き合わせたかというと、何やら密約を交わした彼との、今後の連絡役を私に任せるとのこと。近年の政財界ではステュアートの優秀さが注目されており、逐一挙動が目立ってしまわれる方。夫はできるだけ秘密裡に、彼の力を利用していたかったのでしょう。
このように見目麗しい若い殿方を妻のところに通わせる、夫がいかに私に関心のないことかの証左でした。その頃は愛妾であった女性への執心もとうに落ち着き、より若い側女らとの享楽に病みつきになっていたご様子。
利己的な夫はステュアートにとって実に付け入りやすい駒でありました。
彼の目的はおおよそ見当がつきます。彼は二百年と続く名門子爵家の次男。嫡男である兄君との確執は想像に難くありません。まぁ他家の御家騒動など、私が好奇心で覗き見ることではありませんが……。
それよりも彼は、日陰に身を落としつつある私に親身になって、進むべき道を照らしてくれたのです。
初めて交わした会話は……確か。
「お互いに、生まれにがんじがらめにされて。運命のままならなさが歯痒うございますわね」
「今はただ耐えてください。時間が必要です。きっとあなたは自由に羽ばたける。そうあるべきお方だ」
思いもよらずシンパシーを返され、多少顔を赤らめた自覚もあります。
彼にはすべて見抜かれていたようでした。
彼は理知的で博識で、以後その才華を惜しみなく私に披露してくれました。二十歳でとうに“株式市場の鬼神”と名を馳せていた彼。私財はもちろん、人脈人望すらその年代で右に出る者はなし。やっかみを受け金の亡者と揶揄されてもおりましたが、彼にとっては勲章のようなものであったかもしれません。持ちうるすべてのものと知略を用い、夫の求める金や女を容易く用立てていたようでありました。
時々彼は、私に目立たぬ贈り物をしてくれました。
「あなたの円やかな肩にしなうブロンドの髪に寄り添えるのは、この慎ましい真珠ではと、ふと閃きまして」
そう言いながら黒真珠のネックレスをこの首に掛け後ろで留めるあいだ、私は鏡に映る彼の指を焦げるほどに見つめていました。だって目が離せないのです。節ばった、やや細く長い指、その優美な仕草、指先から放たれる色香。
ここまで褒めておいて、爪の先ほども男女の関係ではなかったのかと訝しく思われますか。それはですね、このような時こそ私の心は高揚し、押し込めていた感情が湧泉のように溢れ出すのです。吐き出したい思いはこれに尽きました。
「あなたがブランドンに助言して拵えたこの家の財を、けしてあの女の息子の代まで遺さないように……」
「お任せください」
彼は後ろから、私の耳元でそっとささやきました。彼ほど信頼できる大人はおりません。
“信頼”──夫とそれを築けなかった私には胸に染み入る言葉。この温かさで私はその十年間を生きてこられたのです。
愛娘マドラインが年頃になり、さしもの私もただ悠長にしてはいられなくなりました。そろそろ先を定めなくては。そんな折りに、彼より提案されたのです。娘を由緒あるジェンクス公爵家のご嫡男に嫁がせるのが最善だと。
「洗練された立ち振る舞いの、物腰柔らかな好青年だと噂の方ですわね」
「仄聞ですが……以前の舞踏会でマドライン様はかの若君に好感を持たれておられたと」
「まぁ……それは知らなかったわ」
それならば願ってもないお話です。彼が取り成すと約束してくれました。公爵家に嫁いだ娘が子を産めば、彼女の地位は盤石となる──。あそこの御家なら生まれた子が女児であっても王家に入ることが確約されます。
私の人生は我が娘という存在のための布石であった、それで構いません、十分に報われます。すべての懸念を払拭し、これからの私はどこへでも行ける。ゆえにこの頃から、私は出国を目論んでおりました。
マドラインが16になり、婚約者であるブルース・ジェンクス様との挙式もつつがなく終えました。
(長かったわ、ここまで……)
私にとりましては計画の総仕上げへ、カウントダウンが始まったのでございます。
挙式より季節が一巡した時節に、マドライン懐妊祝いの夜会を我が家で催す運びに。私は私の名でステュアートに招待状を送りました。
暮れ時より始まった夜会は毎度のことですが、集う人々の思惑が混ざりあい煙のこもったようです。
食事の席では、夫とその取り巻きがいつもと変わらぬ話に興じておりました。過去の栄光を称えられ悦に浸る夫。周囲では大概の者が食傷を腹におさめ、終わらない巧言に耳を傾けて。
私は一度バルコニーに出て夜空に浮かぶ三日月を眺め、そして庭先に目を向けました。荘厳な表玄関口の向こうに多くの新聞記者が詰めかけております。それはステュアートと私で呼び掛けておいた者々。
私は踵を返し、そのまま晩餐の場を抜け廊下で辺りを見回しました。ステュアートが到着している頃ですから。
「ステュアート!」
「ルシール様、本日はお招きいただきまして」
相も変わらず身のこなしの美しい彼は儀礼のキスの後、私を誰の目にも触れない踊り場に連れていきました。
「あなたのための記者陣は十分でしたでしょうか。彼らの、ネタへの期待値も上げておきましたが」
「私の目的はほんのついでですわ。あなたのお披露目の方が大事。嫡男であるあなたのお兄様を穏便に排し、今宵、あなたの悲願であった襲爵とクアーク家の陞爵を世間に発表する。後見役の方も到着していますわね? このために十数年もの間、あなたはブランドンのような無能の大臣にこき使われていたのだもの」
「いいえ。私は襲爵いたしません」
「え?」
思いもよらぬ返事が返ってきました。彼は、私のような一婦女をも利用して叙爵のため奔走していたというのに。
「どういうこと? 今までのあなたの労苦はなかったことにしますの?」
「こちらへ」
「え?」
彼が私の手を引いて連れてきた部屋は書斎でした。
「こちらにアリンガム侯をお呼びしております。あなたはカーテンの中に隠れてください」
「え、ええ……」
ここにきて夫と何を話すというのか、私は予想だにしておりませんでした。
間を置かず、のしのしと夫が入室してまいりました。重そうな身体を振るうように机に向かい腰掛けます。
「貴様と私は公の場でけして顔を合わせぬ決まりだ。忘れたのか?」
「話は手短に済ませます。まずはこちらをご覧ください」
一刻も早く酒席に戻りたい夫は、つまらなさそうに彼の持ち込んだ書類に目を通します。
それほど灯の至らぬところでございましたが、私には夫の顔がみるみる青くなるのが見て取れました。
「すべて、あなたによる不正授爵の証拠です」
「貴様ッ……!」