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短編集

最後の晩酌

作者: 安井優


「あら、高そうなとっくり!」

 亡くなった父の遺品を家族総出で整理していると、どこにしまわれていたのか、妻は桐箱から陶製のとっくりと猪口(ちょこ)を取り出した。

「お義父(とう)さん、こんなの使ってたかしら」

「ほんと、立派だわねぇ」

 母も遺品整理の手を止めてそれを眺めた。どうやら長年父と過ごした母も見たことがないらしい。

 僕もそれを一目見ようと妻に近寄る。娘と息子も興味があるのか、僕の後ろをいそいそとついてきた。


 とっくりは、その道には(うと)くとも、確かに立派というに相応(ふさわ)しかった。

「もしかすると、代々伝わるお宝かもしれないよ」

「え! すごい! 古そうだもんね!」

 僕に賛同するのは娘のみ。母と妻は呆れ顔で笑い、先日、二十歳の誕生日を迎えた息子に至っては

「今日はこれで晩酌にしようよ」

 そんなことまで言う始末である。酒が飲めるようになったことがよほど嬉しいのだろう。

「そんなことしたら、お宝鑑定団に出せなくなるじゃん!」

「あの人にそんな高いものを買う器量なんかありませんよ」

「ほら、ばあちゃんが言うんだからさ。どうせならみんなでパーッとやった方が、じいちゃんも喜ぶよ」

 理屈も何もないが、飲兵衛(のんべえ)の家系である。特に父は酒が好きだった。

 僕らは息子の誘惑に負けて、そのとっくりで晩酌をすることに決めた。


 (よい)のうち。

 数年ぶりの母の手料理に舌鼓をうちながら息子にお酌をしてもらう。もちろん、使っているのは父のとっくりだ。なんと贅沢な時間だろう。僕は猪口(ちょこ)を片手にぐいと(あお)る。

 父が好きだった地酒は、すっきりとした飲み口と滑らかな舌触りが特徴だ。

 うまい料理にうまい酒――何より家族がそろうのは久しぶりのことで、酔いのまわりも早かった。


 そうして、いつの間に微睡んでしまったのか、ふと目が覚めたのは夜も深い丑三(うしみ)つ時のこと。

 いつもであれば、どんなに酔っていても必ず布団で眠る妻と母も、今日は茶の間でうたた寝をしている。娘と息子は、当然のように畳の上で丸まって眠っていた。

 すっかり目が覚めてしまった僕は、そんな家族の姿をしり目に縁側へ腰かけた。

「おや、こんなところに」

 父のとっくりと猪口(ちょこ)が「まだ飲んでくれ」と言わんばかりに並べられている。ちゃぶ台からずいぶんと離れているが、誰かがここに移動させたのだろうか。それとも、一人でにとっくりが。

「どれ、もう一杯」

 僕は並々と注がれている酒をこぼさぬように、猪口(ちょこ)をゆっくりと持ち上げる。

 猪口(ちょこ)の中に映りこんだまんまるな月がうまい酒を余計に引き立てた。


 猪口(ちょこ)のつるりとした感触が唇に触れた瞬間――

「ばかもん! わしにお酌くらいせんか!」

「……父さん?」

 聞こえた声に、僕は恐る恐る顔を上げた。


 目の前の庭。そこには、まだまだ現役だと言わんばかりの父の姿。月の光に照らされて淡く輝いている。

 深く刻みこまれた眉間のしわが、少し穏やかに見えるのは気のせいだろうか。

 ……いや、それよりも。


「ゆ、幽霊‼」


 僕はドタドタと茶の間の方へと駆け込む。その拍子で猪口(ちょこ)が倒れ、中の酒がこぼれる。だが、そんなことを気にする余裕などない僕は妻の体をゆすった。

「なにぃ……?」

「父さんが!」

「とうさん?」

 妻はのんびりと起き上がり、寝ぼけ眼をこする。

「父さんがいるんだ!」

 僕が指をさした縁側――チリン、と風鈴が鳴るばかりで、先ほどまでいたはずの父の姿はない。

「やだ、あなた。お酒の飲みすぎじゃない?」

 果たして本当にそうだろうか。

 妻にかけられた疑いを晴らすため、ということもあるが、何よりもう一度父に会いたかった。

 僕は転がった猪口(ちょこ)を拾い上げて妻を手招きする。二人で縁側に腰かけた。

「見てて」

 とっくりを傾け猪口(ちょこ)に酒を注げば、トクトクと良い音がした。


「親父を幽霊呼ばわりするやつがおるか! このたわけめ!」


 月明りと共によみがえった父の懐かしい声は、妻の悲鳴にかき消された。

 その悲鳴に、母はもちろん、娘と息子も目を覚ます。何事か、と僕らの周りに集まり、父の姿にはそれぞれの反応を示した。

 母に関しては驚きのあまり失神しかけ、父と同じく旅立ってしまうところであった。


「何をぼーっとしておる! 一緒に酒を飲むぞ!」

 父はまんざらでもなさそうである。満足げな笑みを浮かべて、僕の手に握られたままの猪口(ちょこ)をよこせと言わんばかり。


 誰しもが目の前の現実を受け入れられない。そんな混沌(こんとん)とした状況で最初に口を開いたのは息子だった。

「俺、じいちゃんと一緒に飲みたかったんだ!」

 父は生前、孫である娘たちを大変可愛がっていたものだ。特に息子には「二十歳になったら一緒に酒を飲もう」と何度もしつこく言っていたものである。

 まさか、こんな形で叶うとは。

「でも、まずは」

 息子が猪口(ちょこ)に入った酒を口へ運ぶと、猪口(ちょこ)の中に残った酒の量とシンクロするように、父の姿がうっすらと消えていく。母は再び倒れかかったが、それは妻と娘に阻止された。

「あれ? じいちゃんは?」

 飲み終えた息子が首をかしげる。

「今、あんたが消したのよ。多分」

 娘が肩をすくめると、息子は状況を飲み込んだのかとっくりを再び手に取った。

「お酌するには、まず猪口(ちょこ)の中身を空にしなきゃいけないだろ。仕方ないよ」

 悪びれた様子もなく息子はお酒を猪口(ちょこ)に注ぎ、それを天高く掲げた。

「いでよ! じいちゃん!」

 猪口(ちょこ)のフチが月光にきらめくと、再び父が現れる。

「まったく、お前というやつは」

 孫に甘いのが祖父というもの。父は呆れながらも嬉しそうに笑った。

「はい、じいちゃん! って、飲めるのかな?」

「孫の注いだ酒が飲めんやつがおるか」

 父がくい、と猪口(ちょこ)(あお)る素振りをすれば、猪口(ちょこ)の中身はあっという間に空っぽになってしまった。

 息子はもちろん、僕たちの誰も猪口(ちょこ)には触れていないというのに。

 いつの間にか、目の前にいたはずの父の姿も消えている。やはり、猪口(ちょこ)に入った酒と一心同体なのだろうか。


「じゃ、次は私が」

 面白いものを見たというように、息子の手から猪口(ちょこ)を奪い取る娘。だが、酒を少し注いだところで、彼女は何かに気づいたように手を止めた。

「さすがに少ないんじゃないか?」

 僕のツッコミに、娘が遠慮がちに目を伏せる。

「お父さんたちの分も残しておかなくちゃいけないから」

 どうやら、とっくりの中身――酒の残りを気にしているらしい。

「このお酒がなくなったら、もう、おじいちゃんには会えないかもしれないでしょ?」

 だから、と娘は月に猪口(ちょこ)をかざす。

 父は姿を現すと、娘に優しく微笑みかけた。

「お前は優しい子に育ったなぁ。すっかり別嬪(べっぴん)さんになりおって」

「ありがとう、おじいちゃん」

 父は自らの姿を淡くさせながら、娘の注いだ酒を飲む。

「……消えちゃった」

 父がいた場所を見つめる娘の横顔は、父の言う通り別嬪(べっぴん)さんだった。


 子供二人にならって妻がお酌する。その手つきは美しく、いつも僕の晩酌に付き合ってくれているせいか、ずいぶんと様になっていた。トクトク、と鳴る酒の音も、子供二人に比べると上品でリズミカルだ。

「お義父(とう)さん、どうぞ」

 妻は頭を下げて、丁寧に猪口(ちょこ)を差し出した。

「そんなにかしこまらんでいい。お前さんは、わしのせがれには出来過ぎた嫁だ」

「いいえ、お義父(とう)さん。私には出来過ぎた夫ですよ」

 息子が僕を肘でつつき、娘はニヤニヤと頬を緩ませる。

「ま、これからも仲良くな。息子を頼む」

 消えゆく父を見送って、妻は顔をほころばせた。


「何してるの。次は私ですよ」

 僕が伸ばした手をパンとはらって、母がとっくりを奪う。

「え、だって……」

 こういうのって普通は奥さんが最後じゃないの。とぼけた顔をする僕に

「あの人ね、あなたが生まれてからずっと、最後の晩酌はあなたにして欲しいって言ってたのよ」

 母は懐かしそうに目を細めた。

「あなたが眠ってから、私たち、いつも二人で晩酌してたのよ。大抵あの人が先に酔っぱらっちゃうんだけど、その時のセリフは決まっておんなじなんだから」

「最後はお父さんがいいって?」

 娘が興味深そうに耳を傾ける。母は感慨深げにうなずいた。

 ――俺の夢は、最後に縁側であいつと酒を飲むことだ。そんで、あいつの酒でコロッと()っちまうのさ。

 ガハハ、と笑う父の顔が思い浮かぶ。

「頑固だと思っていたけど……まさかこれほどとはねぇ」

 母の笑い声と、とっくりから酒を注ぐ音が混ざり合う。

 父は姿を見せるや否や、母に笑いかけた。

「覚えていてくれたか」

「そりゃぁねぇ。あなたのことは全部覚えておりますよ。好きな食べ物、好きなお酒……縁側に座る位置もね」

 母は、ちょうど僕の座っている位置へと視線を移す。

「お前には苦労をかけたな」

「やだわ、今更。そういうことは生きてるうちに言うものよ」

 母の猪口(ちょこ)に、輝く月が映りこむ。

 父はそれをゆっくりと飲み干して、姿を消した。


 とっくりの中に残った最後の一杯。

 僕が最初にとっくりを倒さなければ。もう一度入れなおさなければ。もっと父と話せただろうか。

 だが、それも今となっては過ぎてしまったことだ。僕は意を決して、とっくりを傾ける。

 猪口(ちょこ)の中に注がれていく酒と共に、父の姿が光に反射して形作られていく。それはどこまでも澄み切っていて、そんな父の姿に、もう父はいないのだと思う。

「父さん、最後の晩酌だ」

 父とは何度酒を()み交わしたか分からない。それでも、これが最後で良かったと心底思えた。

「大きくなったなぁ」

「はは、いつまで僕を子供扱いするんだよ」

「いつまでも、わしの子供だ。お前は」

 僕が笑えば、父も笑った。記憶のままの豪快な笑い声だった。


「さ、そろそろいくかな」

「どこへ?」

「酒のうまいところだ」


「……どこだよ」

 僕が呟いたとき、猪口(ちょこ)の中身は空っぽになっていた。

 とっくりの中身も、もう空である。

 代わりに、僕の涙が一粒、猪口(ちょこ)の中に落ちて輝いた。





 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 まだまだコロナ禍が続き、大変な思いをされている方もいらっしゃるかと思います。

 皆さまと大切な方々との時間が少しでも良きものになるよう、心よりお祈りしております。


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[良い点] お酒を呑みながら交わされる、家族のやり取りをじんわりと感じさせていただきました。最後の呆れたようなセリフと、落とされた一粒。この組み合わせは、ホントにジーンときました。お見事……お見事です…
[良い点] 今は亡き父親と月光の中、日本酒を飲む主人公家族。 男親にとっては、必ず経験したいことのひとつだろうと思う。 しかし、そういうことも、ふとしたきっかけで叶わない夢になってしまうことも、たび…
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