九話-リーリエ・イノ
昼休憩を終える前、講義が始まる十分前、講義室は各々集まって雑談に勤しんでいる。
そんな中、友人の一人もいないトオルは、講義室の最後尾で本を読む振りをして、少しずつ集まって来た生徒たちを観察していた。獲物を狩るには観察からである。
学園は単位制となっていて、自由に講義を受けて良い。
あくまで講義を選択する自由だけだ。
講義を受ける席でさえ、自然と別れていた。教壇を前方に席が段々に配置されているが、最前列が神官や大貴族、前方が貴族や小金持ち、そして最後尾は平民となっている。
完全に分かれているわけではないが、概ねそのようになっている。例外、平民が他の所に混じっているのはその能力を認められているからで、貴族が後ろにいるのは意地悪だ。
ネメスでは大貴族の数は建国当時から一定数で、貴族の数のみが変動する。その貴族も神に認められる必要があるので、平民が成り上がるのは実質的に不可能だ。
神が功績を認めた者のみが、貴族として家名を名乗れる世界。
神を至上とする世界で、神に認められた一族と、そうでない一族では雲泥の差なのである。
尤も、学園の中で理不尽に権力を振りかざす者は滅多にいない。学園に入学できるのは選ばれた者だけだからである。数少ない役立つかもしれない者を大事にする分別ぐらいはほぼ身に着けている。
「どうしてそこに座っているのかしら?」
その声がした途端、雑談が一気にしぼむ。トオルは本を机に置いて、前方を見た。
最前列で背の高い生徒が騒いでいた。立った彼女は背筋を張っていて、眼鏡に長い黒髪だ。彼女が座っている生徒に文句をつけている。
その姿を見てトオルは、ああ、と興味を失い、視線を変えて他の生徒を観察する。
この講義にはリーリエ・イノがいるらしい。
「すみません」
目を逸らしていても声は聞こえる。座っていた生徒が謝っていた。
大貴族か神官の娘が座る列。
いわばこの国のご息女の中でトップもトップを苛立たし気に命令して退かせられる地位。
そんなことができるのはこの学園の中ではリーリエ・イノしかいない。
「何をしているんだい?」
凛とした声が響く。声を聞いただけで心がグッと掴まれる。トオルの視線はすぐに前方へ向いていた。
声だけで人を魅了できる美声。その声の美しさは魔的めいたものを感じるほどだ。
だが、彼女の存在の美しさも負けていない。
手入れの行き届いた金髪をなびかせて、教壇を悠然と歩く少女。同世代ではトップクラスのプロポーションを誇るように胸を張っている。
否、少女にその自覚はない。生まれ持った才を持つものの風格だ。
もちろん、彼女が何者であるかトオルは知っていた。年は十五になったばかり。名はリーリエ・イノ。この世界の支配者側に属する人間。ネメスで五人しかいない最高権力者の大神官の娘だ。
先ほどの眼鏡の生徒は彼女の従者である。自身にそれほどの地位がなくとも、リーリエの従者というだけでネメス有数の権力者を退けさせられる。
「これは、その」
リーリエに尋ねられた従者はしどろもどろになった。
主は従者に向かって言葉を発していたのだ。まるで抗議だとでも言うように。
リーリエはそんな彼女から目を離し、従者に文句をつけられていた生徒に頭を下げた。
「すまない。迷惑をかけたようだ。君たちはここに。私たちは後ろに行くから」
「いえ、そんな」
「それはこちらの台詞だよ。講義はどこの席でも聞けるんだから」
リーリエはそう言って、最後尾まで上がる。従者は顔を下げて、リーリエの後を追う。
トオルが座っている席の間反対に彼女らは座った。
リーリエ・イノは最良物件だ。身分も容姿も完璧である。性格は話したこともないのでわからないが、意地汚い権力者の多い中、驚くぐらい物腰が柔らかい。
だが、リーリエに近づけない。
リーリエ自身はトオルを表面上拒まないだろうが、従者は必ず邪魔をする。
これ以上ない物件だとしても取り付く島もないのだ。
それは他の物件も同じである。
行事ごとでもあれば、身分の壁は少し薄れるが、通常生活では話しかけるのでさえ難しい。
リーリエだけでなく、他の玉の輿候補も同じだった。
学園の身分の壁。これをどうにかしない限り、トオルは光明が差さないと考えていた。
貴族の娘ともなれば加護は強力で、キスをするのも力で負ける。強硬策を取るには罠をしかける必要があるが、スラムの客のように甘くはない。
手立ては今の所、何も浮かばない。
「それでもだ」
トオルは本で口元を隠して、ニヤリと笑う。
彼の目は死んでいない。爛々と光っていた。諦めなど全く見えない。打つ手があるのだ。まだ博打は終わらない。勝負に着くことは出来るのだ。
だが、まあ、今、彼の頭に浮かんでいる第一目標は、ボッチ卒業なのだが。