六十九話 トオル菊池のレポートその二(後編)
パルレの部屋から出たトオルは、セネカの元を目指した。
パルレと同じ寮に住んでいるので、渡せるうちに渡しておこうと思ったがいなかった。
トオルと恋愛関係にある間柄ということになっている相手に渡さないのは駄目だ。不安に思わせてしまうので、渡さないのはもちろん翌日に変えることも許されない。
しかし、セネカはパルレと違ってトオルのキスで蕩かされた駒じゃない。手紙を渡した方がよいが、当日に渡さなくてもよさそうだった。少なくとも行事ではしゃぐタイプじゃないだろう。
セネカ・ローウェルはただの友人である。リーリエの従者の座を巡って騙し勝ち、その後はトオルの代わりに剣術大会に出てもらった。関係性は友人でしかない。
そういう訳でセネカをあっさり切りあげ、トオルはスラムに向かった。
首都土産が重いので、荷を軽くするためにステラから訪れる。従僕はトオルの顔を見ると、主人にお伺いを立てずに通した。すっかり顔パスになっている。
ステラがいつもいる執務室をノックするが、返事はなかった。
仕事に集中しているのだろうかと思い、再度ノックしてから扉を開ける。中にステラはいた。が、眠っている。
椅子にもたれ掛かって居眠りをしていた。背が高くスタイルのいい彼女は椅子に寝ているだけで絵になる。一まとめにした黒髪が、肩から胸へと掛かって広がっていた。その髪の匂いや柔らかさ、手触りを知っているトオルはつい触れそうになる。
髪から視線を移すと、ひざ元の本に気づいた。
本のタイトルは手で見えない。確認しようとトオルが一歩進むと、ステラは慌てて飛び上がり机の下に隠れた。
「ボクだよ。驚かせてごめん」
トオルは両手を上にあげた。
ステラは敵が来たと思っていたようだ。スラムの管理者は危険な地位である。彼女の警戒は極々自然なことだった。
「仕事?」
「いいえ。パルレさんから借りた本の続きを」
パルレを駒にする際、ステラに協力してもらっていてその関係で彼女らは面識があった。
本を借りたのは知っていたがまだ続いているとは知らなかった。トオルにとって喜ばしいことである。娯楽らしい娯楽を持っていなかったステラが変わったのだ。
「早速で悪いんだけど、これお土産」
トオルが包みを渡すと、ステラは目を細めた。
「開けても?」
「どうぞ」
ステラは包装紙を丁寧に取っていく。
中からマントが出てきて、彼女は小さく口角を上げ
「大切にします」
とだけ言う。
誰かが見れば素っ気ないと思うかもしれない。
だが、トオルはステラの感謝や喜びの念を感じていた。そして、こう信じていた。彼女の言葉には嘘偽りがないと。本当に大切にしてくれるだろう、と。
それがわかってしまうと、適当には選べない。嬉しい気苦労をトオルは感じた。
ステラの気分が高揚しているうちに一気に済ませてしまおうと手紙も渡す。
「ありがとうございます。私も用意しています」
「来るって言ってなかったのに」
「トオル様はマメなお方ですから。素晴らしいことです」
「素晴らしいって」
ステラが珍しく褒めてくるのでトオルは他意があるように感じてしまう。ステラに問題があるのではなく、キスのことや何股もしていることを隠してやましいと思っているトオル本人に問題がある。
そんなトオルの様子に気づいたのか、ステラは立ち上がって手に持った恋愛小説を数冊トオルに見せた。
「本心です。文献にマメさは人気の秘訣と」
「文献ね」
トオルは笑いそうになるのを堪え、そう言った。恋愛小説を文献というのは違和感があったが、いつもお堅いステラが言うと可愛さしかない。
それは彼女の魅力の一つにしか過ぎない。
トオルにとって、ステラとは強い人だった。いつも落ち着いていて勤勉。憧れの対象であった。そんな彼女がときたま見せてくれる甘えはとても可愛らしい。
ステラの手紙はシンプルな便箋だった。彼女もトオルのを読んでいるので、トオルも読み始める。
「スラムの子として生まれた私はどうにかこの地位まで這い上がってこれました。しかし、常に蹴落とされないかと不安で仕方ありませんでした。夜も眠れず、呼吸だって満足にできなかった。そんな日々は貴方様に助けてもらったことで一変しました。新たな人生をありがとうございます。本当に感謝しています昔も今もこれからも」
トオルは手紙で顔を隠しながら笑顔を作る練習をした。
そうしないと笑顔を上手く浮かべられそうになかった。
一変したとステラは言うが、事実は少し違う。トオルがキスのスキルで変えてしまったのだ。一番初めの犠牲者なのだ。
キス以前のステラをトオルは知らない。だから、彼女をどれだけ変えてしまったのかは確認できない。
どれだけのものを壊したかは不明だ。わかっているのは本人の意思で積み上げてきたものを消し去ったという事実。
それでも騙し続け、蕩かしていく。
このキスの効力が続くまでに、再度地獄に堕ちずに済む算段を立てなければならないのだ。
「ステラ」
名を呼ぶとステラは手紙を机の上に置き目を閉じた。
口づけをするまでにトオルは気持ちを整える。
そして、いつも通りキスをし、唾液を流し、ステラを離れぬよう縛りつけるのだった。
パルレとステラに手紙を渡したトオルは、スラムを彷徨っていた。
エニティンを探していたのだが、中々見つからないのだ。エニティンはスラム出身で加護がないため、まともな教育を受けていない。字を読むことができないから、渡すのは首都の土産だけだ。楽園の日に手紙を渡すという形式を守らないでいいので、今日でなくてもいいのだが、せっかくスラムに来たのだから済ませたい。そうトオルは考えていた。
エニティンは過去のトオルに近い地位にいる人物だ。
この世界は加護のある一番上から順に女性、男性、加護のない女性、そして最下層の両性具有という序列になっている。加護のない女性であるエニティンはスラムでは男性の力に怯えて生活しなくてはならない。
トオルは両性具有だったので、幼い体つきだった頃は男性として、女性らしい体つきになってからは加護のある女性として偽って生活している。彼の本来の地位では、今の職であるリーリエの従者にはなれないどころか、学園への入学も難しいだろう。
その難しいを可能に変えたのが、トオルのキスのスキルだった。キスをした相手に――正確に言えば自分の体液を摂取した相手に対し――自身への好意を倍加させるというものだ。それによって、ステラを手籠めにし、エニティン、ニクル、パルレ、クロ、リルと攻略し着々と自分の地位を上げていた。
トオルはこの世界で最も蔑まれる両性具有だ。キスで駒にした相手にさえ、この事実をトオルは打ち明けていない。知れば離れてしまうかもしれないと恐れていた。
唯一、ステラにだけは両性具有であることを話しているが、彼女にもキスのスキルは話せない。
それもそうだ。君の愛情は嘘偽りなのだと打ち明けられるはずがない。トオルは偽物の愛で、今の生活を続けていられるのだ。
彼が昔生活していたのはスラムだった。
スラムは男性が住まう地区だ。ネメスという国の最も汚い場所である。人身売買はもちろん、殺しの仕事だってある。盗みはよくあるし、殺しだって絶えない。
そんな場所で絶対的な弱者として住まわなければならないのが本来のトオルだ。
その状況を変えるために、騙してキスをして這いあがってきた。
スラムを歩くたびにトオルは思う。二度と戻ってたまるか、と。
いつ襲われるのかと満足に寝れない夜はもうごめんだ。その日の食事を捻出することだけしか考えられない昼もこりごりだ。朝日を見て今日も生きていかねばならないのかと、死にたくないと思っているはずの心に矛盾を抱えるのも嫌だった。
媚びへつらって、嘘をついて騙して蹴落としてようやくここまで来たのだ。
「離して」
女性の甲高い声が聞こえる。助けを呼ぶ声ではない。スラムに住んでいればそんなものが無駄だとわかっている。
ただ抵抗の声だ。これから受ける理不尽へのせめてもの抵抗だ。
加護のない女性は、腕力で女性を上回る男性に勝てない。女性が圧倒的な地位についている世界だが、それを可能にしているのは加護だ。
ネメス神から与えられた超常的力。この世界の男性は元々、加護を持っていた。が、男性は神を穢した罰として、加護を取り上げた。
それからずっと加護のある女性に男性は虐げられてきたのだ。
スラムは加護のある女性がほとんどいない。つまり虐げられてきた男性の鬱憤を晴らす場所としては最適だった。
トオルは声の主に視線すらやらない。
今は怯える必要がない。男性の振りをする必要がない。次は自分に矛先が向けられるかもと心配することもない。
現在のトオルは綺麗な身なりをしているので、加護のある女性だと勝手に勘違いしてくれる。
このまま通り過ぎてしまおうと思ったが、もう一度聞こえてきた女性の声に聞き覚えがあった。
視線を向けてみると、予感は正しかったとわかる。やせ細った体躯に首にかかった茶髪の髪と八重歯、男に手を掴まれていたエニティンがいた。
「おい」
トオルが声をかけると、男はすぐさま後ろに跳んでエニティンの手を離した。
その後、男は卑屈な笑みを浮かべ膝をついた。トオルを見下さないようにという配慮だろう。
「あんた、何をしてたんだ?」
トオルが高圧的に話すと、男は戸惑っていた。
それもそうだろう。スラムでまかり通る行為を咎められる理由が男にはわからない。
わからない理由で因縁をつけられることほど怖いものはない。
男はトオルに左の脇腹を見せるように移動した。股間を守るためである。
半身になったのは危機を察知してだ。男性器は彼らの大事な商売道具だ。男性の価値と言っても過言ではない。
生殖の要であるそれを壊されれば、稼ぐ手段が大幅に減ってしまう。
そこを守るため、男は訳の分からぬ状況でも媚びへつらう。
「何をって、仕事の交渉ですわ」
「交渉ね」
「いやね、あいつがあまりにも高い値段を吹っかけてくるから」
男はエニティンの背に背負われている楽器を指さした。
エニティンは楽器の演奏で生計を立てている。手と口で笛を、足で太鼓を鳴らすスタイルだ。
誰かに習ったわけではなく、拾った楽器で遊んで身についたらしい。
男に視線を向けられ、エニティンは身を縮こませてトオルの背に隠れた。いつも元気があふれる彼女らしかぬ怯え方だ。
トオルはエニティンの手を握って、男に言う。
「そう。でも、ああいうやり方はよくないよお兄さん。大人なんだからさ。お名前は?」
「マグデです」
「私はこの子の演奏が好きなんだ。聞けなくなったら困るからね。粗っぽいことはやめてほしいな。気を付けて、お兄さん」
トオルがそう言い微笑みかけると、男も笑った。
「わかってくれたようで何より」
膝まづいた男にトオルが手を差し伸べると、男は困った目でトオルを見た。そして、恐る恐る手を取り立ちあがる。
立ち上がった男は数歩に一度トオルの方を向いて会釈する。その行動を六回ほど繰り返して走っていった。
完全にいなくなった後、トオルはエニティンと共に路地裏に入った。
「大丈夫だったか、エニティン?」
「うん。ありがと」
エニティンに抱き付かれつつ、トオルは彼女の頭を撫でた。
いつもより強く抱きしめてくるエニティンとは対照的に、トオルはいつもより柔らかく髪に触れる。
彼女の震えが収まるまでずっとそうしていた。
エニティンにプレゼントを渡したトオルは、リーリエの屋敷に戻って来た。
すんなりと手紙やプレゼントを渡し続けたわけではなかったので、予想していた時間より少し遅い。既に時刻は十六時を回っていた。
夕食には間に合ったが、ニクルは料理の最中で忙しいだろう。ニクルの姉のクロも湯あみの準備などをしている。リーリエの屋敷の使用人である彼女らは基本的に忙しい。
であれば、先にトオルの主人であるリーリエに渡しに行くべきなのだが、トオルはその気になれなかった。
なので、ニクルの料理を手伝うことにする。仕事が早く済めば時間もできるからだ。
トオルがキッチンに入るとニクルはいた。ボブカットの茶髪に、幼さの残る顔だちで小柄ながらもメリハリのある体。幼さと大人っぽさが混ざりあっている少女だ。
彼女はトオルを見て、目を丸くした。
「ただいま、ニクル」
「おかえりなさい。早かったですね」
「あ、出かける時にいつ帰るか、声かけてなかったな。夕食を外で済ますと思ってた?」
「はい。でもご用意していますよ」
「ありがとう、楽しみだ」
トオルが微笑みかけると、ニクルは目を逸らした。それは照れからなどではなかった。
いつも明るいニクルらしくない反応をトオルは不思議に思うが、直接そのことを指摘しない。
気づかない振りをして、話を続ける。
「ごめんね」
「何がです?」
「すごかったでしょ、手紙の列」
「そうですね」
「整理を手伝わせちゃったし、ボクにも何か手伝わせて」
「大丈夫です。もう済みますから」
ニクルは微笑んだが、いつもの可愛らしい笑みではなかった。どこか重たく頬を持ち上げている風に見える。
体調が悪いのかもしれない。
楽園の日にバイル学園の生徒たちから手紙を受け取ったトオルとリーリエだが、あまりに人数が多かったのでクロとニクルが列を整理してくれたのだ。慣れない事をさせた疲れは絶対にあるだろう。
手早く済ませてしまおうと、トオルはキッチンの入り口に隠してあった包みを取りに行く。
「はい、首都のお土産。それと手紙ね。疲れているみたいだから、時間がある時にでも読んで」
そう言ってトオルは土産であるハンカチの包みと、その上に置いてある手紙を手渡そうとする。
だが、ニクルは手を出すだけで受け取らなかった。
思ってもみなかった行動にトオルは待てず口を開く。
「どうかした?」
「あの、受け取れません」
「ニクル。ボクからの感謝の気持ちだよ。そんな事を言わないで」
「私の方がたくさんもらっているのに、用意してないんです。お姉さま、忙しそうにしていましたので、ご迷惑かと」
「なんだ、そんなこと」
お返しがあるから送るわけじゃない。常日頃の感謝の気持ちを示しているだけだ。トオルはそう考えていたので、何も問題はなかった。
むしろ、自分への思いが書かれている手紙を受け取る方が罪悪感があるぐらいだ。もらえれば嬉しいのは間違いないが、ない方が有難い面もある。
トオルは笑顔を浮かべてニクルが受け取るのを待ったが、彼女は受け取らなかった。代わりに俯きながら話し始めた。
「用意はしていました。でも、自信がなかったんです。私は下手な字だし、安い紙ですから。だから、捨ててしまって」
楽園の日はネメス国民にとって特別な行事だ。故に手紙の紙に拘る人も少なくない。
中には特注する人もいる。
そこまでしなくとも、特別な手紙にしようと創意工夫を凝らす。
それはトオルがバイルの生徒から受け取ったものもそうだった。トオルが見る限りパルレも、シンプルだったステラのものでさえ、誰一人として同じものはなかった。
そのことを踏まえると、トオルの手紙は市販品のものだ。飾り気は全くない。
自分がそうなのだから気にするな、とトオルは言えなかった。
ニクルの不安がトオルにはわかったからだ。
「お姉さまは私に色んなものを与えてくれています。禁じられた愛まで頂いているのに、自分はお姉さまに相応しくないと、私ばかりもらって不公平だといやしく思うのです」
女尊男卑のネメスでは、女性同士で子を成すことができる。加護が宿らない男性を軽視する世界では、異性間の愛情というのは生まれにくい。自然と女性は女性に恋をする。が、女性同士の愛は神に許可を与えられた者のみで誰しもができるわけではない。だから、一般的な女性は、子が欲しければ見下している男を買う必要がある。
子がいなければ女性同士の恋愛が認められるかと言えばそうではない。許可なく女性同士で恋愛をしたことにより加護を剥奪されるという可能性があった。
神様が目視できる世界で、神様から頂いたものを失くすというのは途方もなく辛い事だ。
何より、加護のない女性になると、今まで加護の力で屈服させてきた男性よりも下の立場になってしまう。
つまり、女性同士の恋とはトオルが日本にいた頃とは違う形で難しいものだった。
トオルたちの関係は当然神様に許可を得ていない。
なので、ニクルは不公平だと言った。
スラムで男性に虐げられてきたことがあるからだろう。彼女は加護を持たぬからこそ、失くす恐ろしさがわかる。
それ故、トオルのことが心配なのだ。
自分との恋で彼が加護を失ってしまっては、と。自分だけ加護がなく、トオルにだけ加護を失う心配をさせている、と。
そして、自分よりも地位も高く、加護も持っている女性の方がトオルに相応しい、と。
だが、それは誤りだ。トオルは加護がなければ、好意もキスの魔力による偽りだ。彼女を落した理由だって、リーリエを陥落させるための足掛かりだ。
キスの力は加護の検知に引っかからない正体不明の力だった。それを隠して、トオルはニクルと関係を築いてきた。
そんな者にここまで心を痛めてくれるニクルに対し、何もしないということはトオルにはできなかった。
「そんなことはない。君にしかない魅力があるんだ。ニクルといると安心する。君は本当に可愛らしい。何でもしてあげたくなるんだ。加護の有無なんかよりもね、もっと素晴らしいものを君は持っている。だから、ボクは惹かれるんだよ、ニクル」
トオルはニクルを抱きしめて、彼女のボブの髪を撫でた。髪の間に手を入れ、優しく頭皮をなぞる。
これ以上は言葉をかけなかった。何度も優しく撫でていると、ニクルの肩が震えた。
彼女の震えが止まるまで、トオルは撫で続ける。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
「あの、手紙は捨ててしまいましたけど、内容は覚えているので言ってもいいですか?」
「聞かせてほしい」
「お姉さまはみんなを優しい目で見ています。そんな人が私なんて選、いいえ、思ってくれる。優しさだけじゃなくて、強くて賢くて綺麗で。そんなお姉さまに応えたいと思います。手紙を読むのは恥ずかしいですね」
ニクルはキッチンから小瓶を手に取った。
「どうぞ。お疲れだと思って、ドライフルーツです。オーブンで作ったのでちょっと失敗してるかもしれませんけど」
「ありがとう」
トオルはニクルと別れ、自室に戻って来た。
まだ夕食まで時間がある。クロに渡そうと、彼女のお土産と手紙を手に持つ。
そのタイミングでノックされた。
「トオル様?」
「ああ、クロ。ちょうどよかった。入ってきて」
「それでは失礼します」
クロが入ってきた瞬間、トオルは彼女が怒っているとわかった。
パルレとのやり取りをした後だと理由に察しがつく。
バイル学園の生徒の件だろう。あの時に何かあったのか、もしくは嫉妬か。
そんなことを思いつつ、探りの言葉をかける。
「ごめん、遅くなった」
「待っていませんけど、どなたと出かけていたんですか?」
「ステラにね。ほら、首都のお土産を渡しに」
「あっ」
クロは唇を強く結んだ。トオルがバイル学園の生徒とデートにでも行ったと勘違いしていたのだろう。
トオルは微笑ましかった。怒りなど微塵もわかない。
このくらいの嫉妬は可愛らしかったし、彼はそんなことよりも酷い事をしている。何股もしているし、そのうちの一人は彼女の妹のニクルだ。責められることはいくらでもある。
「妬いてくれてるの?」
「いいえ、あれだけ手紙をもらえるなら、選びたい放題だろうなと思っただけです。素敵なご学友ですね」
「顔見知りですらない人ばかりだけどね」
「通りで」
「通りで?」
「ええ、整理しようとしていたニクルに高圧的な態度を取る人がいたんです。リーリエ様がたしなめてくれましたけど」
ニクルが手紙を捨てたと言ったのにはこの件も関係しているのだろう。
そう思うと、トオルは自分の無神経さに嫌気がさした。
恋愛関係にあることで心苦しくさせているのに、他のことでも苦しめているようではあまりに情けない。
トオルが内省していると、視界の端に何かが入ってきた。
「これ、私のなんていらないでしょうけど」
クロが手紙を差し出していた。きっとトオルが考え事をしているのを見て、言い過ぎたと思ったのだろう。
彼女のせいでは全くないが、訂正はせず思いやりだけ受け取ってトオルは笑う。
「まさか」
トオルはわざと大仰に驚いて、膝をついた。
「クロのは特別さ。いただけますか、お嬢さん。もちろん、お返しもご用意しています」
無言でクロはトオルの手に手紙を押しつけた。
トオルは立ち上がって用意していた包みを渡す。
「手紙とお土産。お土産はね、ニクルと同じ柄なんだ。色違いだよ」
「ありがとうございます」
クロはプレゼントの包みで口元を隠した。彼女の頬はみるみるうちに赤くなっていく。
その過程をトオルは微笑みを浮かべながら観察した。
「て、手紙を読みますね」
クロが手紙を読み始めたので、トオルも読む。
「悪態をついていた私に優しく、危険をおかして助けてくれた。そんな慈悲深いお姉ちゃんに私はつい甘えてしまいます。でも、止めるつもりはありませんので」
お姉ちゃんと呼んでいいか、とクロは許可を求めてきたが、結局中々呼ばない。妹のパルレよりもクロの方が照れ屋らしい。
彼女はトオルがリーリエの屋敷にやって来てある程度経った時から、トオルに対して素っ気ない態度を取るようになった。その態度が一転したのは、クロとニクル、そして彼女らの家族を助けた時からだ。クロがトオルにきつかったのは、妹のニクルがトオルのことを強く慕っていたことに嫉妬したからだった。
トオルが家族を助けたことで信頼してもらえたのである。そこで、キスをし妹のニクル同様、クロも手駒にしたのだ。
そして、クロはリーリエとニクルにも打ち明けていない加護を有しているという秘密を、誰にも打ち明けていなかった彼女の過去を、トオルだけに話している。
トオルが手駒にしてきた女性の中で、彼に最も秘密をあずけている人物だ。
そのせいか、クロは普段の時とトオルと二人きりの時とのギャップが激しい。普段の時は口数が少なくどことなく冷たい印象がある。彼女はニクルと違って、背が高いということもあるだろう。姉妹で顔と髪型は似ているが、クロの体型はスレンダーだ。何の因果か、妹とは間反対の体つきだった。
が、そんなクロもトオルの前では子供のように甘え、拗ねる。それは妹のニクルよりも激しい。
その理由をトオルは、秘密を抱えすぎていたからだろうと考察していた。
前世で人間観察が趣味だったわけではないが、トオルなりに落した女性の情報を整理する癖があった。それはキスのスキルの効果を調べるうちについたものだった。
甘えられることでさえ、何故かを考えてしまう。そういう人間になったことをトオルは口端を歪めて自嘲した。
ニクルとクロに渡したので、残るはリーリエだけだった。
トオルの主人であるリーリエ・イノ。彼女の母親は神様に仕える神官という職のトップである大神官だ。神様が視認でき、加護という力を与えているネメスという国は、神様に愛されているか否かで何もかもが決まる。
つまり、神様に近しいほど地位が高くなるのだ。そのため、大神官とはこの国のトップといっても謙遜のない地位だった。
その娘というだけでリーリエは地位が高い。トオルが今近づける最も地位の高い人間だ。そんな彼女を駒にして、嘘だらけの自分の生活を安定させようというのがトオルの最終目的だった。
パルレも、クロとニクルもそのために落した。
ステラはトオルが能力に気づくキッカケで、エニティンはその実験なので彼女らは違うが、踏み台という意味では変わらない。
リーリエを落さなくては意味がない。
そのはずなのに、トオルは手紙を渡しに行けなかった。攻略するために重要な好感度イベントだと理解している。それでも足が動かない。
自室に戻ってその理由を考えていると、扉がノックされた。
「ト、トオル。もしも時間があるなら、マッサージをしてくれないか?」
声はリーリエのものだった。いつも凛々しく背を張り、華やかな雰囲気を纏っている彼女とは思えぬ上擦った声だ。
主人からキッカケをもらえるならありがたい。
「もちろんです」
トオルはリーリエの部屋に行き、彼女のベッドに座った。手紙は包みに入れて、懐に仕舞ってある。折れないよう気をつけつつマッサージを始める。
「それじゃあ始めますね」
「よろしく頼む」
リーリエはうつ伏せになって寝転がった。
艶めかしい曲線がハッキリとわかって、トオルは意識して平静さを保つ必要があった。
ベッドに広がる長い金の髪からはいい香りがする。
背が高く、女性として成熟した肉体美の持ち主だ。それだけでなく、肌や髪が別格の手触りだった。
トオルの落してきた女性は、皆綺麗だし手入れもしている。だが、リーリエは一線を画す。神様が作ったかのような、魔的な魅力があった。
マッサージで色んな人に取り入って来たトオルだが、リーリエだけは何度しても慣れない。毎度、鼓動を忙しく動かしていた。
「ああ、そこ。んっ、とても気持ちいい」
トオルを気遣ってか、自然と出ているのか、このように小まめにコメントもくれる。
有難いことは有難いのだが、平静さをぶち壊すには十分なアクションだった。
「ねえ、トオル」
「はい」
「私はね、三人姉妹の末っ子なんだ。姉さまたちには可愛がってもらったんだよ」
「そうなんですか」
「ああ。少し過保護なぐらいね。なにせ、家族以外とまともに接することがなかったぐらいだ」
トオルはリーリエの幼馴染であるシャリオから、リーリエの過去について少し聞いたことがあった。
自分の肩書を見て親切にしてくれる人々としか関われず、家族以外の誰とも心を預けられなかった。故に、友という存在を強く望んでいたのだと。
だから、実家から遠くイノ家の監視下から外れる場所であるバイル学園を選んだ。そして、イノ家の息がかかっている前任の従者を解任してまで、新たな従者を探した。
そして、トオルに出会い彼を友だと言った。
「接する機会があっても、みんな口を揃えて私は特別なのだと様々な言葉で称えてくれるだけだった。それは恵まれたことなんだろう。だから、身分や肩書なんて気にせずに、ただ話し合えたらなんて思うのはワガママなんだろうな」
「ワガママ?」
「そうじゃないか。私はイノ家の三女として優遇されてきた。数え切れないほどたくさんの事柄でね。それを受け取るだけ受け取っておいて、好きな時だけその肩書を捨てるというのはワガママだ。私がどこの誰であるかなんて気にしないでほしいことや、肩書や身分を垣根や障害だと思うのも」
「リーリエはすごいよ」
トオルは煽てて言ったのではなかった。
加護という力として歴然の差が出て、権威を振りかざすことが許される世界。そんな世界で権威に興味がないと、ずっと恵まれた環境にいたということを差し引いても、早々言えることではない。
「私は大したことない。自分で身に付けたものならまだしも、身分も加護も与えられたものだ。私はまだまだ未熟だ。せめて、受け取った分は返せるようにならないといけないよ。その前に君に苦労をかけないよう成長すべきなんだろうけど」
リーリエはそう言って頬を僅かに赤くした。
彼女が何を指して苦労をかけないようにと、言っているのかトオルにはわかった。
クロとニクルを救出する時と、その後の誓約の件だ。
リーリエは二人を救出する際、神旗を使った。神様が与えた力は加護だけではない。神旗もその一つで、神の武具を宿す物の総称だ。
加護よりも希少で強力な代わり、神旗を使用するには制限が一つある。
それが誓約だ。
神旗を使う度に必ず果たさなければならない神様との誓い。これを破ると神旗が扱えなくなる。
神様から授かった神旗を、ネメスの人々が故意に手放すなどあり得ないことだ。
が、リーリエはそうしようとした。
その理由は彼女の誓約が足を舐めさせるというものだったからだ。
トオルにとっては何の障害があるのかわからないものだったが、リーリエには違った。彼女は誰かを跪かせることなどさせたくなかった。友と思っている相手にそうするのであれば、神旗を捨てるという選択を取るほどに。
トオルはリーリエを言いくるめ、どうにか誓約を果たさせたのだ。
「リーリエはまだ学生なんだから」
「それもそうだね。マッサージ、ありがとう。そろそろ起きるよ」
リーリエはベッドから起き、姿勢を正して座った。
「トオルのおかげで毎日が楽しいよ。最近はセネカとも友になれたしね」
セネカ・ローウェルはリーリエの剣術大会のペアだった。
二人は大会を通して仲良くなり、その結果彼女らのペアは剣術大会に優勝した。
それ自体は喜ぶべきことだが、その裏で二人の対戦相手でリーリエの幼馴染であるシャリオ・イグニスが、大会で勝つためにジュ―ブルの間者であるリルを刺客に放った。
トオルはリルを秘密裏に撃退し、シャリオの一件も心のうちに留めた。
なので、リーリエはこの話を全く知らない。
彼女は友人と共に優勝したという輝かしいだけの思い出だ。
トオルはリルにキスをして、彼女を虜にしてしまうという厄介事が増えた。本来、自分への好意を倍加させる効力しかなかったキスのはずが、初対面の敵を魅了してしまったのだ。キスの力が強まったことも不思議だったが、それよりも他の国の間者が自分に懐いているという状況が一番厄介だった。
が、それほど悪いことばかりだとも思っていない。自分の主人に暗い思い出を刻まずに済んだことをトオルは安堵していたからだ。
セネカという友人を得られたことも喜ばしい。リーリエのような心の美しい人間が報われないのは間違っている。それも友人を作るなんていうささやかな願いなのだ。今まで叶えなかった神様がどうかしている。
「どうしてそんな顔で笑っているんだい?」
リーリエに尋ねられて初めてトオルは自分の口端が動いていることに気が付いた。
「穏やかな時間だなあと」
「うん、そうだね。私も君と過ごす時間は大好きだ。勇気が出なくてこんな時間になってしまったけれど、受け取って欲しい」
リーリエはベッドサイドの引き出しから手紙を取り出して、トオルに差し出した。
余裕に満ちた顔ではなく、年相応の強張った顔だった。唇を強く結んでいて、目はトオルの顎辺りに向いている。
そんな様子を観察しつつ、後手に回ったなとトオルは思った。
「ありがとうございます。私のもよければ」
受け取った後に、トオルも懐から包みを取り出した。
手紙を手渡すと、リーリエは放心したように手紙を見つめていた。
「嬉しいよ」
しばらくしてポツリとリーリエは言葉をもらした。手紙を見つめたまま続ける。
「君と出会ってから気づいたことがある。関係というのはあやふやらしい。私がどう思い、相手がどう受け止めるか。たったそれだけのことなのに、本当に難しい。でもこれだけはわかる。私にとって君は友なんて言葉じゃ不十分なんだ。そんな言葉じゃ表せないほど大切だ」
リーリエはそう言うと、トオルの目を見た。
青紫色の瞳を濡らし、手紙を渡した時よりずっと硬く唇を結んでいながらもトオルと目を合わせる。
トオルは強くリーリエに引き寄せられる。
手は自然と彼女の腰に回っていて、徐々に顔が近づいていく。唇を合わせたいという願望や目的といった意識はなく、合わすのが自然だというような行動だった。
が、リーリエの息が頬を撫でた時に、思いとどまった。
どうにか冷静さを保った部分が、このまま押せば目的を果たせると言っている。成功確率が高いぞと唆す。
それでもトオルはそれ以上踏み込めなかった。
腰に回した手をそっと引き抜き、笑みを形作る。
「手紙、読ませていただきますね。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
次回は十八日に更新予定です。