六十六話-トオルのマル秘ノート・パートツー
菊池トオルは何者でもなかった。今もなお、何者でもない。
前世ではニートで、菊池家の子供というだけだ。何も築けなかった怠け者である。それでも生きてこられたのは両親の甲斐性と甘さだろう。
だが、ネメスではそんな素晴らしい庇護下には生まれられなかった。
親どころか身分もなく、両性具有、悪魔の子と迫害される。女尊男卑の世界の最底辺。
存在がマイナスのようなものなのに、神が視認できる世界で神からの加護もない。異世界転生しておいてスキルなし、かと思いきや加護と検知されない力がある。
それがキスの魔力だ。口づけした相手を魅了できる力。オレは唯一の武器を使って生きていく。ただ、保証書も説明書もない以上、過信はできない。
故に、財を築いておく必要がある。
そのターゲットとして選んだのが、リーリエ・イノだ。
今のところ、彼女について掴んでいることを記す。
この国の最上位権力者の大神官。その娘、三女がリーリエだ。
両親と姉妹は首都で暮らしているが、リーリエは進学を機にバイルに移住した。どうも何でも与えられる環境が嫌だったらしい。
彼女を端的に表す言葉は清廉潔白だ。博愛主義的な所もある、と付け加えれば完璧だ。
この世界の権力者にしては腰が低く、権力で威張ったり脅したりするのを嫌悪している。
人柄も、容姿も、技能も、全てが優れている理想の存在である。
そんな彼女の一日はほぼ変化がない。
まず、早朝に目を覚まし、読書の後、中庭で運動。入浴を済ませ、食事を取って登校。帰宅後は読書に励み、就寝だ。
学園がなくてもやることは変わらない。リーリエの辞書に怠惰の一言はないらしい。惰眠を貪るなんてことは一度も見たことがない。
運動は剣を振るうことが多く、実戦を想定した激しい動きだ。一見すれば鍛錬のように思えるが、異常がないかの検査か調整のような役割らしい。
今朝、登校中に足を滑らせて転びそうだった生徒をリーリエが抱き支えた。受けた相手は恐れ多いと、すぐに飛び退いた。
そう、リーリエには友達がいない。みんな彼女を様付けで呼び、遠巻きに見ているだけだ。
そんな環境で育てばひねくれそうなものだが、リーリエはあまりに真っすぐである。昨日も匿名形式で置かれていたお菓子を躊躇せず食べていた。
換えの利く使用人のために、自分の自由を差し出すような人物だ。当然と言えば当然である。人の悪意を疑わず、他人の危機に身を投げ出せる人物なのだ。
どういうわけか、オレはリーリエに好かれている。こちらの神旗を持っているという嘘を暴いたにも関わらず、従者にしているのだ。
理由はよくわからないが、演技ではないし、こちらを騙すメリットもない。リーリエがそんな回りくどいことをするとは思えない。
わかっているのは、内から見ても清廉潔白なままだってことだ。
とはいえ状況は少しずつ進んでいる。
キスはできていないが、リーリエはオレに心を開き、神旗の誓約も打ち明けてくれた。
少しずつ、蕩かすところにまで来ている。
だが、決め手がないのも事実ではある。勤勉で隙がないのだ。そこを崩す何かを見つけられるまでは時間がかかりそうである。
以上、これがリーリエ・イノについて知り得るまとめだ。