六十五話-トオルのマル秘ノート・パートワン
トオルはある日、一日の休暇をもらった。部屋で潰すわけではなく、ステラに会いに行くためだ。いくら学園に近い位置にあるとはいえ、スラムにリーリエを連れて行くわけにもいかない。なので、二週に一度、休暇をもらっていた。
リーリエの屋敷と学園での生活はそれほど疲れないし、日々時間的ゆとりはあるので、疲労回復にあてる日は必要ない。
なので、ステラに会いにいくのが最もしたいことであった。
急に訪問しても申し訳ないので、トオルは事前にステラに会いに行くことは伝えてある。今日は平民街にある小洒落た料理屋で昼食を取る予定だった。
店の近くに行くと、ステラは既に待っていた。トオルはそこへ小走りで近づく。
「待たせちゃったね、ステラ」
「いえ、そんな」
畏まって頭を上げようとするステラより先に、彼女の手を引いたトオルは料理屋に入っていく。
スラムの管理者たるステラは弱小貴族よりも実質的な地位は高く、顔が知られている。そして、彼女は笑いもしない冷徹な女、というのが周囲のイメージだ。そんな女性に頭を下げさせている、となるとトオルの方が目立ってしまう。
しかし、そのことでトオルはステラに注意するようなことはなかった。
目立つことよりも、ステラがへりくだろうとする方が悲しい。
料理を注文し、待っている間、ステラの目はトオルの持つ鞄に向けられていた。
それもそうだろう。彼は化粧品であるとか、そういった女性の必須用品を持ち歩いていなかった。
メリドの衣服にはポケットがついてあるものも多く、財布を別にすれば鞄を持つ必要性はそこまでない。しかし、鞄はファッションの一部として考えられているので、携帯するためでなく、アクセサリーの一種のような扱いで、持つことがステータスだった。
貴族の中には基本的に自分でバックを持たないので従者に持たせるのだが、わざわざ煌びやかなものを買ったりする。かなり重要視されているアイテムであった。
が、トオルは根っからの男性思考で、鞄を持たず、人騎やイノ家の従者であることを示すカードはポケットに入れている。他には財布である巾着をベルトに通し、腰で止め、巾着が足に来るように傾けていた。
そんな彼がわざわざ鞄を持っているのだから、ステラの反応は自然だった。
「流石に驚かすのは無理だな。こういう形でしか示せないけど、日ごろの感謝を」
そう言って、トオルは鞄ごとステラに渡す。
ステラは受け取る前から口を少し開けて、手をゆっくりと伸ばしていった。ゆっくりと受け取ると、手に持っているものが信じられないような顔で胸に抱きしめる。
顔の変化はやや半開きの口と頬がわずかに赤いぐらいだ。よく見ないと気づかないことであったが、ステラなりの喜びの表現であった。
「ありがとうございます」
素直にステラが受け取って、礼を言ってくれたことが、何よりトオルは嬉しかった。
遠慮されたり、畏まられる方が困るというものである。贈り物をあげる側は、喜んでくれる姿が一番嬉しいのだ。
「開けないの?」
「ま、待ってください。贈り物を頂いただけで、感無量というのに、中身も見たら気でも失ってしまいますから」
トオルは思わず息を吹き出してしまう。ステラは冗談を言う性格ではないので、本気でこんなことを言っているのである。それがとても愛おしかった。
「やっぱり、ステラといると落ち着くよ」
トオルは頬を上げて言う。他人の目がなければ、ステラに抱き付きたい気分であった。あの落ち着く甘い香りに包まれると色んなことを忘れられた。
ステラという存在は、トオルの最も大切な人であった。姉のようであり、子供のようでもある。長年連れ添った妻のような気さえする。
一言では表現できないが、メリドの中で一番気を許しているのは事実だ。
ステラがトオルにきっかけをくれたからではない。彼女はトオルと似た経歴の持ち主なのだ。トオルの考えに染まったのではなく、元々、似たもの同士だった。だから、気を許しやすかったのだろう。家族に近い感覚さえあった。
ステラは加護がなく、姉妹が多かったため、親に売られた平民の子だった。しかし、売られてから加護が発現し、自ら生計を立て、何とかスラムの管理者まで上り詰めたのだ。
彼女の原動力は、ただ地獄に戻りたくない、とトオルと同じものだ。しかし、目標どころじゃなかった。娯楽も知らず、ただ生きる。金があっても、効果的な使い方はわかるが、自分に使うことが出来ない。
ステラはトオルと同じ考えを持っていても、我欲がないため、ただ恐怖から遠ざかるためだけに働いている、ということだ。彼女の無表情さは、背中に張り付く恐怖からくるものだろう。トオルの前では幾分ましだが、それでも薄い事には変わりない。
当然、トオルもスラムには戻りたくない。が、日々同性という立場を利用して良い思いをしたりして楽しんでいる。生活の自立は絶対目的だが、ステラを守りたいという思いもある。自画自賛ではあるが、トオルは綺麗に笑えてると思うし、対人スキルもそれなりにあるだろう。
その差は、記憶の差だ。前世の記憶で育まれた空間が、トオルにはあったが、ステラにはなかった。彼女はなりふり構わず、感情表現が薄いことなど気にもとめず戦ってきた。
そこに、トオルが気持ちを植え付け、彼女の仕事以外の大事なものという空間を独占したのだ。
「どうかしましたか?」
「ごめん、暖かいせいかな。ついつい眠気が」
トオルは茶化した風に言ってごまかした。
ステラの庇護下から抜けたのは、彼女が窮地になっても助けられないから、自立したかったというのもある。一番の理由は、魔法が解けてしまったら、とトオルは考えてしまうのだ。偽りの愛を植え付けた罪の大きさに恐れたのだ。
明日になって、キスの効力が切れるかもしれない、という思いが何もかも共有して生きていくという選択肢を奪っていた。
酸鼻たる結末ばかりが、トオルの胸を執拗に貫いていたが、料理が運ばれてくることで、逃げることが出来た。
「さあ、食べようか、ステラ」
「トオル様」
ステラは料理に目もくれず、トオルの目をじっと見た。無表情かつ、迫力があるので怒っているような顔に見える。が、氷を張ったような冷たい黒目は光を湛えていた。
「私は何があっても、貴方様の味方です」
平坦な声でそう告げる。だが、それだけでトオルには十分だった。
「ありがとう。ステラのおかげで、俺、思い出したよ」
爪先ほど首を傾け、目を上の方にやるステラに、トオルは満面の笑みを向けた。
そうじゃないか。不変のものなんてないんだ。感情は移ろうもの。薄れることも、濃くなることもあり得る。だからこそ、考えうる最善を。未来で笑えるよう、ひた向きに。
時間がある今こそ、情報の整理が必要だろう。トオルは屋敷の中にあるノートの事を思い浮かべていた。日本語で書かれたノートである。
申し訳ありません。またまた、約束破り……。
お待たせしました。本編に関係ない話として小話を五話ほどやってから、三章に戻ります。
二週に一度の更新ペースで三章を進行し、四章はまたお時間をいただく形になると思います。
今回は誤字脱字チェックを残すのみなので、ひと月も音沙汰なしなんて不義理は致しません。
今回の更新遅れは、新人賞の張り切りすぎでした。
同時並行で四作もやって、どれも中途半端になってしまうという。やっぱり、一つずつやるのが、低能の私にはお似合いでした……。