六十一話-覚悟を
帰りが遅くなったせいか、リーリエはすぐ眠りに落ちた。元々、試合で疲れているのだ無理もない。トオルは応援だけなので疲労感はなかった。目だけは瞑って、頭だけ働かせてしまう。
思い浮かぶのは今日の試合だ。加護を使う剣術大会にはルールがあってないようなものだ。加護が強ければ強いほど絶対的な力になる。
努力では超えられない壁だ。少なくとも、自分ではリーリエやセネカには敵わない。他の選手にもだ。
状況を整え、汚い手を使ってようやく勝ちを拾える。
加護の有無というのはそういうものだ。
気分が沈んでいくのがトオルにはわかった。何度も考えてきたことで思い知らされてきたことだ。眠るために深く呼吸をする。
しばらくして、眠りは訪れた。
トオルはふと目を開ける。尿意があったわけでも、リーリエが起きたわけでもない。それが何故かは彼自身わからなかったが、次第にわかってきた。宿の二階は貸しきりのはずなのに、足音が聞こえる。
微かな音だったが、スラムで夜襲に怯えて一時間おきに目覚め耳を澄ましていたトオルには、眠りの中でさえ届く。
宿の者だろうかとまず思ったが、その数瞬後には刺客ではないかとも思った。日本にいた頃には考えもしない発想だ。しかし、この世界に来てからは何度も見てきた。
どちらにせよ夜更けに来るということはそれなりの用だろう。そう考えたトオルは枕もとに置いてある短剣を握り、外に出た。
廊下は僅かな月明かりで照らされているだけだった。いくつもある窓と窓の間には闇が広がっており、そこには何かが潜んでいるように思えた。それら一つ一つを見るが闇が蠢いているようにしか見えず、中に何もいないのか、何かいるのかはわからなかった。
トオルは短剣を抜き、構えながらいつ飛び出てきてもいいように闇に眼をやる。
すると、大きく木の軋む音が鳴る。それはうっかり鳴らしたのではなく、あえて鳴らし威嚇しているような気がした。その証拠に、一歩一歩わざとらしく足音を立てて何かが近づいてくる。
「そこにいるのは誰だ?」
トオルは声を張り上げた。とにかく、宿の従業員か刺客か、はたまた猫かはわからないが、何かはいる。そうであれば、最悪の想定をするのがトオルだった。刺客であれば、トオル一人で対処できる保証はない。それよりも、リーリエとセネカを呼んだ方が安全なのだ。つまり、牽制と助けを呼ぶ行動だった。
が、大声に応えるのは足音だけだった。トオルはもう一度、誰だ、と叫ぶ。
「宿の従僕です。リーリエ様にイノ家から急ぎの文が」
そう言って、月明かりの届く範囲に少年が出てきた。俯いているせいで顔は見えなかったが、声変わりのしていない甲高い声と、小さい体躯に汚れた格好はあの少年たちのものだった。
「叫んで悪かったな。リーリエ様を起こしてくるから、そこで待っていてくれ」
「わかりました」
少年が返事をしたので、トオルは背を向けようとする。その前に、ふと思ったことがあったので、半分ほど回転した状態で止まった。声を張り上げてしまったし、安心させる意味も込めて無駄話をする。
「ところで、君たちは兄弟なのか? よく似ているなあ、と思っていたんだけど」
初日に荷物を運ぼうとしてくれた少年たちの顔はよく似ていた。あの時は話すことができなかったので、何となく気になっていたのだ。今は一人しかいないようだが、もう一人は本来の仕事でもしているのだろう。
が、少年は答えなかった。無駄話をしないように教育されているのか、言っている意味がわからないのか。
そう思った時、トオルは大きく息を吸った。
「リーリエ、セネカ!」
絶叫に近いボリュームで二人の名を呼び
「あんた、さっさと構えたらどうだ?」
と従僕を装った誰かに向かって静かに声を掛ける。トオルの声に驚いたのか少年は手に持った紙を落とした。
リーリエが従僕を使わないと知ってから、店主は自ら動いていた。日頃は知らないが、リーリエが宿泊している間はずっとここで寝泊まりしている。なら、これほど重要な仕事を従僕に任せるだろうか?
そして、トオルの問いかけに答えなかった。答えられなかったとしたら。
あくまで悪い妄想だ。が、メリドではその妄想が現実になる可能性は大いにあった。それ故に、トオルは眠りが浅くなっていたのだ。
何より、様々な危機に直面してきた彼の直感が告げている。あそこにいる何かは敵である、と。
少年はゆっくりと屈み、紙を拾い上げようと右手を降し、左手を腰に回す。彼の手が紙に触れた途端、左手でトオルに向かって何かを投てきした。
トオルはそれを剣で弾く。彼は構えた段階で、加速能力を細切れに、そして断続的に使っていたので対処できた。
加速の力を持っているのだから、警戒するのは当たり前だ。相手も持っていると考えるのが自然である。
「リーリエ!」
叫びに答える者はいない。
起きないのか、それとも起きられないのか。もし、起きられないのであっても、助けに行くことはできない。トオルは目の前の敵で手いっぱいだ。
今も攻撃は続いている。少年はナイフのようなものを投げ続けていたが、それではトオルが仕留められないと悟ったのか、両手にナイフを持って迫ってきた。
「応援はこねえのかよ」
弱音を吐きながら、トオルは少年の猛攻を往なす。背の低い少年が姿勢をさらに落とし走ることで、急に迫ってくるような錯覚に襲われる。それに手間取っていたら殺されるという訳だ。
幸い、その戦法はトオルの能力と相性が良かった。加速していれば攻撃を受ける前に回避行動を取れる。が、そのことに勘付かれ、トオルが攻勢に出ることはできなかった。
足で駆け、手で方向を転換することで、少年は咄嗟の動きに対応してくる。それを追うのは、封を取った風船を捕まえようとする好意に等しい。足でのステップであれば動きは読めるが手を使われると難しかった。全く予想できない。
加速で取れるアドバンテージは少ない。使用するたびに負担がかかるので、既にトオルは少年の動きを捉えるだけで精一杯だった。それほど少年はすばしっこい。
そして、加速の維持時間は減ってきている。細切れに使いすぎた。
もしもの話ではあるが、初撃から近接戦でも状況は大差ない。なぜなら、コンディションが優れていたとしても加速が保てるのは最長で数秒だからだ。
攻勢に出て躱されでもしたら、加速が切れた後、副作用のダメージに悶えるという隙を作ってしまう。少年のような手練れにその隙は死を招く。
だから、トオルは深追いできずにいた。
どちらも決定打に欠ける。少年はナイフで斬りつけようとするが、外すとすぐに下がる。トオルはその場に立って、少年の攻撃を回避するだけだ。
しかし、トオルの方が焦っているはずだ。少年は明らかに訓練を受けた動きなので、持久戦になってもしくじらないだろう。男の暗殺者なのだ。加護の代わりに身体を鍛えるしかない存在が、なよなよしい訳がない。それか、女かだ。そうであればより勝率は低くなる。
それにトオルは加速による副作用で痛む体と気を張り詰めた状態が続いて、今にも吐きそうだった。
「いつでも、勝負に出ないと駄目か」
トオルはそうぼやく。声こそ、やれやれ、といった具合だが、その言葉は彼の心に火を灯した。
菊池トオルとしての生を賭け、ようやく掴んだ心持ち。戦わなければ得るものはないという道理。それを言葉にするというのは、トオルのスウィッチだ。
少年が駆ける。トオルが腕をだらんと下げ、棒立ちで立っているのだから、無理もない。決め手がないのは少年もだ。チャンスがあれば、罠を承知で飛び込んでくる。
トオルはまだ動かない。自身に迫る影をただぼおっと眺めている。その遠い目と虚脱した姿勢は、見たものに諦念を表現している様だ。
が、そんなことはない。それは最もトオルから遠いものだ。何が何でも生きていたい。そう思う人間でなければ、とうに命を捨てている。スラムでは明日は掴み取るものだった。
至近距離に迫られ気づいたことだが、少年は少女だった。髪も見たことがない。銀の髪は月明かりによく映えていて、まだ丸い頬っぺたが子供らしい。が、目は人殺しのそれだった。暗闇と比較するのが馬鹿馬鹿しくなる無。これほどまでに黙っている目を見るのは、スラムで絶望に暮れていた人々の目を見てきたトオルでさえ初めてだった。
少女はまず左手で身を起こしながら右へと腰を捻って、逆手に持ったナイフでトオルの右足を切り裂く。それにより、トオルはよろめき剣を落した。少女は止まらず、そのまま立ちあがりつつ、背が足りないからか爪先立ちで、捻った腰を戻しながらナイフの刃を内に向けトオルの首を狙う。
その動作は本来流れるような、一瞬の出来事だった。が、そこで時間を稼ぐ。加速による数秒の間。できることは多くない。そして、最悪にも少年ではなく少女だ。きっと加護が使える。そんなことはトオルもわかっている。故に、覚悟を決め備えをしてあった。
足を斬られた時点で、トオルは右足を半歩後ろにずらしていた。すると自然に、腕も後ろにいく。それは、半歩下がった距離だけ勢いを込めることが出来る、ということだ。
「っは」
息を一気に吐き、渾身の一撃で少女の頬を殴りつける。加速を使用した状態での打突なので、勢いも増している。そして、少女は爪先立ちだったからか空の段ボール箱みたいに吹っ飛んだ。トオルは拳を突き出した勢いのまま走り、地面に転がった彼女に馬乗りになって組伏せ、素早く腕を膝で拘束する。
そこでトオルは大きく息を吐いた。油断はできないが、一段落ついたといっていいだろう。
賭けは見事に成功した。
勝因は二つだ。少女が機械的に急所を狙ってくるので、ある程度動きが読めたこと。
そして、トオルが覚悟を決めた事だ。迷いがあったらこの賭けの結果は違っていただろう。
だから、少女が急所を狙っている、という推論を信じ、行動に移すことができた。痛みに耐え、一手を繰り出すことのみに専念した。
「問題はここからだ」
この少女の目的がなんであるかを聞き出さなければならない。
拷問、という物騒な単語が浮かぶ。殴りつけておいてなんだが、小学生に見えなくもない少女を甚振るのは心が進まない。他に手だてがないのか、とトオルは考えたが一つしか思い浮かばなかった。彼には加速のスキルと、魔性のキスだけしかないのだ。
トオルは少女の腕を膝から肘で押さえつけ、手で顔を固定し、そのままダメ元でキスをした。