六話-仮説その二
店で夕食を取っていると、トオルは気配を感じた。
キスをし成功すると、相手の鼓動が伝わるようになる。それを接続と彼は呼んでいた。キスの魔力に囚われた人間が近づけばわかるのである。
実験の結果、目隠しをしていても伝わるとわかった。距離は視界に入れられる程度、その中であれば背後であろうが壁があろうがわかる。
欠点はそれが誰かはわからない点だった。
「貴方、よね?」
後ろから声をかけられ、トオルは振り向いた。
そこにいたのはエニティンだった。パートエのように、救助を装って実験に付き合わした一人である。
六人中の二人目、二週間ほど前の話。賭場で大負けし、やけ酒を煽っていた所を攫ったのだ。
茶髪で小柄な少女。楽器の演奏で生計を立てている加護無し。サイドの髪が顎と同じぐらいの長さで、襟足は首までしかない。女性にも、男の子にも見える格好だ。
加護無しがそういう恰好をするのは、それだけ加護のない女性は危険だからだ。男性は加護のある女性から迫害され、怒りを溜め込んでいる。それを発散する相手が加護無しである。スラムでは加護無しは格好の獲物なのだ。
「貴方、とは?」
トオルはわかっていてとぼけた。
エニティンと会ったのはベロウズとしてだ。声音も容姿も違う以上、見つけられるはずがない。
常識的に考えればそうだが、この世界では加護という奇跡がある。だが、エニティンは加護無しだ。彼女が見つけられたのは魔力による繋がりである。
キスの魔力の二つ目の効果、魅了だ。
「ベロウズさんでしょう? どうしてか私には貴方がそうだってわかるの。彼女は貴方みたいに髪が短くなかったし、赤くもなかった。だけど、そう思うの」
感覚としてトオルをベロウズとわかるものの、思考がそれはまやかしだと判断しているらしい。
魅了の効果は人によって、個人差がある。一度のキスで、ここまで深く接続できたのはエニティンともう一人だけだ。
ここで誤魔化してもよかった。エニティンは駒としては弱い。加護がない以上、トオルよりも荒事には向かない。
「事情があってね。よかったら落ち着いた所で話さないか?」
トオルは少し迷ったが、正体を明かすことにした。深い接続が出来た相手は二人しかいない。今後のためにも、サンプルの観察は重要だ。
トオルが利用している宿にエニティンを連れ込む。
安宿のため、天井が低くまともな家具もない。ベッドがあるだけで部屋が埋まっている。まさに寝るためだけの部屋だった。
トオルはベッドに腰かけたが、エニティンは入り口の前で突っ立ていた。
店から宿まで移動している間、会話はなかった。初対面に近いので、何を話せばいいのかわからないのだろう。
「そんなに緊張しないで」
トオルはエニティンの手を引っ張ってベッドに座らせる。右隣だ。
「狭い部屋だけど、ベッドは悪くないでしょ?」
「うん」
エニティンは自分の指を見て頷いた。
トオルはエニティンを見つめているのに、エニティンは目を逸らしたままだ。
それでも、トオルはエニティンを見つめたまま会話を続ける。
「それで、どうして来たの?」
「お礼をしたくて」
「へえ、お礼」
トオルはニヤリと笑って、エニティンの肩を押した。ボスンと音を立ててベッドが揺れる。
エニティンが驚きから、トオルの方を向くと、既にベッドに寝転んだトオルがいた。
拳一つ分の距離だけ離れた位置にお互いの顔がある。微細な動きさえ誤魔化せない距離。エニティンは急いで離れようとしたが、いつの間にかトオルの左手に背を抱かれていた。
彼はゆっくりと手を動かす。エニティンの背をくすぐるように撫で、脇腹に移動する。
「綺麗だね」
トオルはエニティンの目を見たまま言った。彼はこの部屋に来てから一度だってエニティンから視線を外していない。
「うそ」
「本当だよ」
「私は髪が短いし、やかましいし、全然綺麗じゃないし」
エニティンはわざと男に見間違えられるような容姿にしている。
ネメスは女尊男卑の世界だ。基本的に男性を想起する記号は軽視され、女性らしさを想起させるものに憧れる。
綺麗な長い髪、お淑やかな仕草、そういった美しいものに目がない。
トオルの目から見れば、エニティンも綺麗だ。ボーイッシュな感じで、元気に満ち溢れている。今みたいに口が半開きだと、八重歯が見えて可愛らしい。
エニティンはトオルが指を動かす度に、身をよじらせた。それは逃げるためではなく、つい動いてしまった風だった。そうでないと、ずっと大人しくしている理由にならない。
「やかましいか。ずっと静かだけどね」
「それは」
「ああ、でも息は荒いね。大丈夫?」
エニティンは唇を強く噤んで照れた。
しかし、一分もしないうちに唇が緩んでくる。
「エニティンは何をしているの?」
「楽器」
「へえ、どんな?」
「……い、いろいろ」
トオルはエニティンの目を見つめながら、ベッドに面していない左腕を動かし彼女の体を撫でる。
ただ、触れるだけ。それ以上のことはしていないにも関わらず、エニティンはさらに息を荒くし、目の焦点がぼやけてくる。
「いろいろか。どんな曲を? ボクは激しい曲が好きだな」
「……それも、ふっ、いろいろ」
「どうやって見つけたの?」
トオルの問いにエニティンは答えなかった。答えられない。
質問が答えにくいのではなく、複雑すぎるわけでもない。彼女の脳が処理を拒否している。あらゆる思考はある一点に研ぎ澄まされている。静かで二人きりの会話をする余裕さえ失っている。
「ねえ」
再度呼びかけても返事はない。
トオルはエニティンの体から左手を離し、彼女の下唇を摘まんだ。
「ボクが質問しているんだよ?」
わざと目を細め糾弾すると、エニティンは顔を紅潮させしがみついてきた。
「もう我慢できない。早くちょうだい」
「何を?」
「キス。キスをしてよ」
エニティンにせがまれ、トオルは注文に従った。
楽しいお話しを終え、エニティンは疲れたのかベッドで眠ってしまった。
トオルは疲れていないし、まだ寝るには早いのでシャツを着て上半身を起こし、エニティンの髪を撫でる。
そうこうしているうちに、ステラの時を思い出した。彼女も突然、トオルの元を訪れたのだ。
ステラを介抱した翌朝、トオルが目を覚ますとステラが真横に立っていたのだ。トオルは当時住まいがなかったとはいえ、路地や橋の下で寝ている連中はいくらでもいる。偶然見つけ出せるなんてあり得ない。
どうして一日も経たずわかったのか、とトオルは驚いた。
「匂いで解ったのです。加護です」
何故ここがわかったのか、と訊くトオルにステラはそう説明した。
「私を助けてくれたのは、貴方様ですか?」
「疑問形というのことは、わからずに来たんですか?」
当時、ステラに刃向かえば命がないとまで考えていたので、トオルは敬語で話していた。
「ええ、匂いは薄いので確信を持てるほどでは。何というか、引き寄せられたんです。直感ですね。見て、貴方様とわかりました。目覚めてから、ずっと私は貴女様を探さなければならない、という言葉が己が内から聞こえてくるのです。その声と匂いと直感に従うと迷うことなくここに。私だってわからないんです。目覚めれば既にいなかったし物も落していない。本来なら匂いを辿れるはずがない。なのに、ここだと引き寄せられ、見てもいないのに貴方様とわかったんです」
ステラの話を聞けば聞くほど、トオルは混乱した。匂いを辿る加護があるが、それは不完全らしい。決め手は引き寄せられた? 管理者様は電波女だったのか、とすら思ったほどだ。このまま逃げようか、とも。
しかし、権力者であるステラをないがしろにはできず――というより加護の前では逃走など無駄なので――トオルは再度会話を試みた。
「それで、私に何かご用が?」
助けたお礼がしたいなら話が続けられるが、そうでなければどうしようか。トオルは損得勘定をしていた。
一方、ステラは目を伏せ口ごもっていた。
「大変申し上げにくいのですが」
そう前置きしながらも、ステラはトオルの目と首のあたりに視線を慌ただしく交互に移動させ黙っている。言葉の代わりに頬を真っ赤に染めていった。
「キス、していただけませんか?」
トオルは答えることが出来なかった。恥じらった様子のステラを見れば、これが冗談でも聞き間違いでもないことはわかっている。
だが、そうであれば余計に不可解だった。加護を失うといわれているのに、と。トオルは加護を持っていないが、ステラはそうではない。そんなリスクを冒して何がしたいのだ、と。
神様に許可されていない同性愛は禁じられている。破れば加護を失うとも言われているのだ。
「本当は、貴方様が助けてくれたのか、と訊くべきだとわかっているんです。でも、囁いてくるんです。貴方様の唇はとても甘く、この火照りをどうにかしてくれるから、重ねてもらえと」
トオルが驚いた表情をすると、ステラは目を伏せ恥じらいから悲しみに表情を変えた。
「無理を言っているのはわかっています。でも、抑えられないんです。何でも致しますから、お願いします」
トオルは返事の代わりに、身を乗り出してそっと唇を合わせた。
ここまで必死にお願いされて、無視できるほどトオルの精神力は強くなかった。前世から女性にはもちろん興味があったし、目の前にいるステラはファーストキスをささげるのに、申し分ないほど美しかった。
そして、トオルに未来の展望がなかったのも大きい。スラムでの小汚い暮らしは彼から大半の希望を奪っていた。例えば、女に転生したことで、好きな女の子と恋なんてできないだろう、とか。
キスという行為は自然に行われた。トオルは唇を重ねていた時よりも、離れてからの方が心地よかった。
トオルが離れていくのを、濡れた目で惜しむステラがあまりにも美しく、愛おしかったからだ。初対面の人間にそんな感情を抱かせた行為に、トオルは終わってから驚いた。
「それでは失礼します」
トオルが驚いている間に、ステラは丁寧に礼をして、トオルの部屋から出て行った。何が何だかわからなかった。が、始まりからしてよくわかっていないので、まあいいかと諦めた。これは夢だったと思うようになった。平民街から出た残飯を漁り、人権を無視した仕事をしている内に頭がおかしくなったのだろう、と。
しかし、夢は覚めなかった。次の日もステラはやってきたのだ。
彼女とコミュニケーションを重ねていき、トオルはある結論にたどり着いた。自分の唾液を摂取した相手は、自分のことを良く思ってしまう。そんな能力が自分には備わっているのだと。
それがキスの魔力の二つ目の効果、魅了だ。
魅了は命令よりも条件がわかっていない。
本心を見えやすくする毒のようなものであり、個人差も存在する。そして、中毒性がある。効果を例えるなら、飲酒による昂揚が近いだろう。
魅了状態になっても命令と違って、トオルに絶対服従するわけではないし、相手の意思を支配するわけでもない。なので、対象の心を曲げるような指示もできない。個人の好意の延長線上にある事象が、彼の扱い可能な範囲だ。詳しく言うなら、トオルへの好意が欠片もなければ、魅了の毒も、命令すら機能すらしない。
キスの魔力は無理やり好意を植え付ける力ではないのだ。欠片でもトオルに好意があることが前提条件である。
「んっ、トオルぅ?」
エニティンが寝ぼけまなこでトオルを見上げる。彼女には本名を明かした。
「起こしたね、エニティン」
トオルは微笑んで、エニティンのでこに唇を当てる。
魅了の効果は摂取させればさせるほど、効果は高まるらしい。毎度キスをする必要はなく、接続さえ済ませればトオルの体液で可能となる。とはいっても、トオルの体から離れて一分以上経過すると、毒ではなくなってしまう。予め飲み物に混ぜてという使い方はできない。
だから、このように体のどこかに唇を当てるのは効果的だった。
「トオルにキスされると体の芯から嬉しいってなる」
「それはよかった」
魅了の能力は、対象からの好意を増幅、倍加させることだ。それを繰り返すことで、最終的にトオルへ心を委ねるところまで進むのである。
よって、ある程度好かれていないと始まりもしないし、好意があったとしても、加護を失う恐怖の方が強ければ、キスをして円滑に進むとは限らない。決め手になる、トオルを拒めなくなるだけの土台が必要なのだ。
ステラは家財全てトオルにつぎ込む勢いだが、昨日のパートエに同じ事を求めても不可能だ。命令と違って、魅了は即効性のあるものではない。体液を与えれば与えるほど、トオルへ依存する。逆に与えなければ、効果は薄れるわけだ。与えても跳ね上がるわけじゃない。徐々に毒していくしかない。
理性を蕩かし、トオル以外何もかも捨てていいと思えるところまで。
例外もある。それがステラやエニティンだ。ステラがあそこまで罹ったのは危篤状態だったから、もしくは罹りやすい体質だったかだろう。
そういう能力の詳細を、トオルはステラや客の身体で確かめたのだった。
「逃げんな!」
声と共に岩と岩をぶつけたような、大きな音がした。
トオルはベッドから抜けて、慎重に部屋にある小窓から外を窺う。
ちょうど窓から見える位置に、学生が金髪と茶髪の二人と男が一人いた。
スラムの常連、バイル学園の学生だ。彼女らは男を壁に追い込み、金髪が肩にめがけて靴のつま先をめり込ませる。
「貴族様から逃げようってのかよ、ええ?」
「そうよ。せっかく買ってあげるって言っているのにどうして?」
男が答えないでいると、いや、恐らく答えられないだけだろう。彼は背を壁にぶつけられたのか、激しく咳き込んでいる。そんなことに配慮せず、茶髪が男の服を引き裂いた。
茶髪の動きは軽やかだ。服をつまみ、引っ張っただけ。それだけで服が布切れに変わる。
加護のある女性は身体能力が高い。男性よりも高いので、日本でいれば超人扱いだっただろう。
男はうずくまり、学生たちは超人的な威力で蹴り続ける。あっという間に、男の体は、赤く、黒く、染まっていく。
「あーあ、見つかった相手が悪かったね」
エニティンはシーツをマントのようにして、トオルの横に並んだ。
トオルは涼しい顔を装う。
スラムでは見慣れた光景だ。スラムに隣接したネメスの都市の一つ、バイル。そこの学園はエリート揃いだ。多少の不祥事はもみ消される。ステラでさえ、彼女らには歯向かうのは命懸けだ。
ネメスという国は、ネメス神が上におり、その次に貴族が存在している。神様から家名を授かった家々。神様に従うのだから、神様の認めた人間も当然従わねばならない。ステラのように、揺らいだ地位にいない絶対的強者。
だからこそ、トオルは怯えていた。窓越しでも、吐き気を抑えている。
スラムにいる限り、奴らに振り回される。どれだけ、スラムで魅了を増やし駒を増やそうと、奴らに両性具有、悪魔だとバレれば終わりだ。奴らの脅威以外にも、いつ殺しが起きても不思議でないスラム自体が安全ではない。
トオルがスラムのトップを陥落しつつも、慎重に振る舞ってきたのは安全性が薄いからだ。スラムでなら裕福に暮らせる。でも、実際は崖っぷちだ。危険はいくらでもある。そんな所で器用に踊れる度胸はない。
だったら――。
「狙うはあそこだな」
トオルは呟き、学生たち、制服を視界に入れていた。
一章はこれにて終了です。一章がプロローグですので、次回からは二章のスタート、話が動いていきます。
二章は前作のスタート、玉の輿、学園編です。二月一日に一話を更新しますが、毎日更新は厳しそうです。
三話で「七日から十日ほどお休みをいただいて、毎日更新で二章を、と考えております」と宣っていましたがもう少しお時間を頂きます。
今の所、更新方法は三つ考えています。
1.今のように全部書き終えてから、毎日更新(出来ていませんでしたが)。
2.賞の半分ほど書いて毎日更新し、時間を少し置いて残りを更新。
3.三日おき程度の更新ペースを保つ、です。
1が一番更新まで時間が掛かる形で、番号が増えるにつれ更新再開が短くなります。進捗状況で判断しようと思います。
いずれにせよ、二月一日に進捗状況の報告を兼ねて、二章の一話は更新します。それ以降は遅くとも二月中旬には毎日更新を再開できます。
お待たせして申し訳ありません。