五話-仮説その一
空気の湿った匂いと埃っぽさを隙間風が伝えてくる。
その他は、虫が這ってきたり、昨晩の雨水が落ちてきたり、鳥のさえずりが聞こえてきたり、数人の足音が聞こえてきたりする。
それが女の知る情報だった。
彼女は放棄された倉庫の床に転がっていた。目隠し、手枷足枷、おまけに口枷まで嵌められている。
この状態で既に二時間が経過していた。視界を遮られ、僅かな可動域での触覚と、まともな嗅覚と聴覚だけで今を知るしかない。
五体満足だった彼女にとって、それは耐えがたいことであった。初めは喚き、どうにか拘束を解こうともがき、休み、繰り返し、途中で泣き、大きな物音に驚いて失禁し、泣き叫び、今では放心状態だ。
扉が開く。女は身を縮めた。この期に及んで、助けが来たとは思えない。自分を害する何かに怯えている。目を覚まして、あいつらはまず毒を――。
足音が近づく。照明が点いたのが、目隠し越しにもわかる。女は震え、ただ待つことしかできない。抵抗が無駄だと、この二時間で理解していた。口枷があるから、悲鳴も無駄なのだ。
やられる。惨たらしく殺される。目を強く閉じ、痛みに身構える。
が、彼女の耳に届いたのは柔らかな声だった。
「安心してください。救助です」
声の主が、転がった女の目隠しを解いた。
女は目を開くも、明るさですぐさま瞑ってしまう。
一瞬の視界で、長い髪にキャップを被った女性がいたのがわかった。あとは目尻にあった黒子を覚えている。
「私はベロウズ。ハイフで最近横行している連れ去り事件を調査しています」
ベロウズは女の口枷を解いた。その瞬間、女性は激しく舌を動かす。
「助けて。私、何か飲まされて、熱くて。ゲホ」
乾いていた喉に急に空気を入れたせいか、女は噎せた。
酷い声だ。声が濁っている。監禁のせいだろう。
「落ち着いて。貴方の名前は?」
「パートエ」
「パートエ、ほら水を」
パートエはベロウズに押し当てられた水筒から水を飲んだが、すぐに吐いてしまう。叫んだせいで喉がやられてしまったらしい。
それでも喉は潤ったので、ベロウズは会話を続ける。落ち着ている暇はない。
「毒を飲まされたの。だから、早く」
「体が熱くなって、動悸が激しくなったのでは?」
「そうよ」
「やはり同じ手口ですね。解毒薬を持っていますから飲ませます。ですが、量が少ないので失敗しないよう口移しで――」
「ちょっと待って、それは」
パートエは解毒を焦っていたのに体を強張らせ、ベロウズを止めた。
ネメス神の加護のある女性にとって、この心配は当然のことだ。
ここネメスでは神の許しがあれば、女性の同性愛で子を授かることが出来る。それ故に同性でキスするのが難しい。
女性同士の愛の末に子を授かれるのは、神の許可を得た者だけだ。そのため、無許可で女性同士で愛しあえば加護を剥奪される、と考えられている。
神の裁きは絶対だ。疑わしいことは行わない。それがネメスの人々の常識だ。
加護の有無で今後の生活難易度が変わるのだから慎重になるのである。
「救助ですから大丈夫ですよ。何度もしていますし、ネメス様も人助けで裁きを与えません」
「そう、よね。お願いします」
パートエは少し脱力した。まだ不安なのか、硬さは残っている。
そんな彼女を確認していて、ベロウズは気にせず口づけをした。もう見飽きた反応だ。そして、彼女には罪悪感などない。
解毒薬など含まない。三秒経過した瞬間、ベロウズの胸が高鳴る。まるで心臓が二つ出来たかのような鼓動。これを彼女は接続と呼んでいた。
「君は今から家に帰りなさい」
「はい」
返事を確認してから、ベロウズはパートエの拘束を完全に解除した。
パートエが離れてから、ベロウズは倉庫の水場に移動し、化粧を落とす。目元に作った黒子を取り、帽子を脱ぎ捨てウィッグを外す。
鏡に映るのは暗い赤髪の少女、トオルだった。
服も着替え、彼女がベロウズとして振る舞っていた形跡を消す。顔を覚えていても、偽名で変装までしていれば気づくことはまずない。
「最終チェック完了だ。やっぱり、どのサンプルも三秒だったな」
トオルは倉庫の端に置いておいた椅子に座り、日本語でメモを取る。
彼女が行っていたのはキスの魔力の効果検証だ。説明書がない以上、自分で作る必要がある。何度も繰り返して、仮説を立て、それを検証してきた。
今回の手口はこれで六度目だ。ステラが管理している店で酔いつぶれた客を誘拐し、毒と言って酒を飲ませたのである。解毒など最初から必要ない。
ステラと出会ってから、トオルは能力を試し続けていた。だからこそ、ホストクラブ紛いの店で働いていたのだ。ウェイターであっても、酔っ払った客がキスをしてくることぐらいはある。
その結果、キスの魔力は今の所二つの効果が判明している。それは命令と魅了だ。
命令はサンサンスやパートエのように、トオルの命令を実行する。万能な能力に思えるが、制限があって一人に一度しか発揮されず、以降は魅了に切り替わる。
発動条件は口づけで三秒以上必要と使いどころは難しい。
加護のある女性にとって、同性のキスは凶器同然だ。三秒も無抵抗のままいるのはあり得ない。
サンサンスのように相手が男性だと思っているか、パートエのようにキスする必要性を作らないといけない。
「まったく、半端な能力だ。ただでさえ、両性具有という大きなハンデがあるんだ。能力ぐらい優遇してくれよ」
トオルのぼやきも尤もだった。
命令は一度だけで、複雑なことは指示できない。その場で実行できることのみで、あれをしてこれをして、と複数の命令も不可能だ。
そもそも、ネメスでは同性のキスがタブー視されている以上、キスそのもののハードルが高すぎる。
とはいえ男性として振る舞ってキスをしていては、いつまでもスラムから抜け出せない。ここに居続けるのであれば、ステラで十分だ。けれど、トオルは満足していない。
キスの魔力も仮説にすぎない。絶対ではない以上、それだけに頼るのはあまりに危険すぎる。
抜け出すには、上を狙う必要があった。