三十六話-話しておくこと
スラムまでは移動は騎車で行う。汽車ではなく、騎車なのはこちらの移動手段は馬が主だからだ。騎車と言っても馬車とも違う。普通の馬であれば馬車、この世界の工業品で、機械仕掛けの馬であれば騎車と分類される。トオルの人騎と同じ原理の製品だが、移動に特化しているので武装はない。形状も一般的なものであれば機械仕掛けの馬に荷台がついているだけのシンプルなものだ。多機能の人騎に比べれば安価だが、庶民が持つことは滅多にない。
なので、トオルは存在を知っていたが、実際に乗ったことはなかった。車や新幹線といった乗り物と比較しても乗り心地はそう悪くない、というのが彼の評価だ。自分の現代知識はやはり役立ちそうにないと感傷に浸る。専門的な知識はないに等しい。義務教育に毛が生えた知識レベルだ。
騎手は臨時で雇った者が務めているため、騎車の荷台でトオルとリーリエは待機していた。
車内ではリーリエが置物のように背筋を張って座っているから、トオルも姿勢よく座っている。救出という目的なのでそういう雰囲気になるのはわかるのだが、トオルには少し厳しいものがある。
「トオル、ランクラーに入る前に話しておくことがある」
話題を振ろうとしていたトオルより先にリーリエが言った。しかし、雑談というわけではないらしい。リーリエの顔にはいつもの微笑みがなかった。それに盗み聞かれないよう、声量を抑えている。
不謹慎にもトオルは、リーリエもこういう時はそれなりの表情を浮かべるのだなと思った。
「私はスラムへ行くこと自体禁じられているのだ」
「それはどうしてですか?」
「話せば長くなるのだが、一言で言ってしまえば家の事情だ。そうだな、私がどうして実家を離れ、バイルに来たか、から話そう」
そう言ったリーリエの表情には、苦悶と疲れの表情が浮かんでいた。
「知っての通り、私はイノ家の三女だ。嫌味に聞こえてしまうかもしれないが、様々ものや機会が与えられてきたし、不自由はない生活が保障されている。何だって、与えられるんだ。衣類に食事、付き合う人々、進路も。が、私はそういうものをただ享受することができないらしい。けれど、抵抗も難しいんだ」
リーリエは本当に辛そうに言った。嫌なことでも思い出したのか、歯がゆい顔をしている。
自分が口を止めているのに、リーリエはようやく気付いたようで、謝ってから話を続けた。
「それでも、付き合う人間ぐらい自分で選びたかった。だから、実家から遠くイノ家の監視下から外れる場所であるバイル学園を選んだ。まず入学の際、屋敷だけ用意してもらい、使用人は自分で集めた。が、それがスラム出身の者や、姓がないものだということは報告していない。そうすれば反対されるであろうことは理解している。ここでは私の望むように生活したかったし、実家には秘密にしたかったわけだ。が、そのことを前任の従者は納得してくれなくてな。あまりにも強引なので押し返してしまった。トオルに出会えたことは幸運なことだけど、彼女には申し訳ない事をした」
「それじゃあ、私を選んだのは、剣術大会のためではなく」
「そうだ。すぐにでも変えたかった。しかし、親から与えられたものを受け入れないというのは、その者の不手際になるのだ。だから、表面上不満のないよう取り繕った。嘘をつくのは嫌だったけど、なんとか二年前の春まで過ごし、君を選んだ。もちろん、君のことは何一つ報告していないし、報告しろとせっつかれてはいる。出来ないようにしている。私が知らないんだからね」
やはり、鋭い。リーリエは言及こそしなかったが、トオルの出自に見当がついているらしい。ただ、何でそんな話をしているのかはわからなかった。それに肝心の情報が抜けている。何故、彼女はスラム出身の人々ばかり雇うのだろうか。
気にはなる。とはいえ、ここで下手なことを言えば墓穴を掘ることになる。大人しく待っているしかなかった。
それを怒ったと勘違いしたのか、リーリエは頭を下げた。
「すまない。君の事をお母様たちに報告できないというのは、君を中傷する意図で言ったわけじゃないんだ。私は身分が人の価値と直結するとは考えていない。ただ、母様や姉様たちはそう考えていない。それに同調し続けるのが辛かったからバイルに逃げて、実家に近い従者も私情で切り捨ててしまった、ということさ。隠してはいるけれど、いつかは認めてもらうつもりだ。トオルのことは本当に大事だと思っているんだよ」
「いえ、私の方こそすいません。リーリエ様の話をまとめていただけで、中傷されたなどと感じていませんよ」
「ありがとう、トオル。君は優しいんだな」
そちらこそ、とトオルは言いたいところであったが、これ以上脱線すると話ができないので会釈だけで済ませた。
「本題だが、私はリーリエ・イノであることを隠しながら行動しなくてはならない。無論、君らの命が天秤に掛けられたら身分など、どうだっていい。が、これまでの生活を送るためにできるだけ隠したいのも事実だ。お母様たちの介入があるとこれまで通りにはいかないからね。だから、イノ家の名を使ってどうこうすることはしたくないんだ。良くも悪くもイノは有名だ。私が現れた、と知られるだけで騒ぎなるだろう」
リーリエの話についてトオルは納得はできなかったが、理解はできた。リーリエは他の人に与えられた人々をそばに置くのが息苦しく、それから逃れるためにバイル学園にきた。そこで好きなように暮らしているが、実家にバレると問題がある。彼女からすればようやくつかみ取った平穏を終わらせたくない。だから、実家にバレないよう身分は隠す、ということだろう。
トオルが納得できなかったのは、リーリエが何故、不自由のない生活をただ享受することができないか、である。
緊急事態は人の普段見れない一面を垣間見る絶好の機会ではあるが、そのことを追求する時ではない。
気にはなるし、リーリエを攻略する上で重要なポイントであるとも理解している。だが、成果を焦ると失敗する、というのがトオルの考えだった。今はクロとニクルのことだけを考えるべきだ。一刻を争う事態なのである。
「つまり、名前を使って小競り合いを止めることはできないということですね」
イノは確かに有名だ。彼女の身分を翳せば、スラムの人々をその場で膝まづかせられる。
大神官の娘という地位はそれほどまでに強大だ。神に最も近い人間の娘。彼女を無下にすればどうなるかわからない。
「そうだ。争いがないにこしたことはないが、今の私ではそれを止めることはできない。不甲斐ない話だが、イノ家の娘とはいえできることは限られている。なので、クロとニクル、あとは彼女らの家族を安全な場所へ避難させることが目的だ」
変に欲張らず、目的がハッキリしているので救出計画を立てるのも難しくないだろう、とトオルはホッとした。
「トオル、避難先の候補はないか?」
「お屋敷はダメなのでしょうか」
「いや、不可能ではない。だが、選びたくないのだ。輸送の問題もある。騎車では全員運べないだろう。それに私が大々的に助けると、今以上に彼女らから恐縮されるからな。できればトオルが主導で助けたことにしたいんだ。そうでなくても君はスラムの事情に詳しいようだから、良い案があるならそちらにしたい」
もちろんないわけではなかった。トオルがステラにお願いすればいいだけの話である。イノ家の名前を出すまでもない。しかし、素性を探られる可能性があった。それはトオルにとってまずいことである。
だが、リーリエ・イノという少女を見ていると、断る気がなくなってきた。リーリエはあくまで真摯に、打算など思いつきもしないような態度で懇願している。そうなると、根っからの悪人というわけではないトオルは揺らぐのだ。
この世界で隙を見せれば危険だとトオルはよくわかっている。たった一言で路頭に迷うことも、場合によっては首が飛ぶことまであるだろう。だからこそ、冷徹でいなければならない。が、どこかで人を信じてみたい、と思うのも事実だった。人を疑い続け、一定の距離を保ち続けるのは熱がいるのだ。
そう、リーリエは勘付いている。スラムの事情に詳しい、と言ってくるのだ。
「わかりました。アテがないこともないので、ご案内しましょう」
「ありがとう。従者に君を選んだ私の見立ては間違っていなかった」
リーリエは雅に微笑んで、トオルの手を取り、その甲へそっと口をつけた。全ての所作がスムーズで違和感なく行われた。そのせいで、トオルが何をされたか気づくのは手を離された時だった。
冷静であればこういう手もあるのか、と心の内に留めていただろう。
だが、トオルは生娘のように顔を赤くするのだった。