三十五話-初めてのワガママ
リーリエのことを放置ぎみだったと顧みたトオルは、朝帰りした翌日から彼女の日課に付き合っていた。
朝食をとる前の運動がリーリエの朝の日課なのだが、これがまたハードだった。
まずストレッチをする。次にランニングのついでに庭の水やりをし、水やりが終えると全力疾走を三本。その後は素振りなどを行い体の動作を確認する。
今日はトオルも付き合っているので、最後の素振りは剣の打ち合いになっていた。
「やはり巧いな」
リーリエは嬉しそうにトオルへ木剣を振るう。
トオルはあえて踏み込んで剣を受け、その勢いのまま前転しリーリエの横を抜け、振り向かぬまま立ち上がりつつ距離を取った。
リーリエの剣は基本に忠実だ。美しい立ち方から堂々と打ち込まれる。剣を習っていたのは間違いない。
彼女は女性にしては体躯がいい方だし剣も重いが、筋肉隆々ではない。体の使い方が上手いのだろう。体重移動のスムーズさは目を見張るものがある。
トオルも前世で古武術を習っていたので素人ではないが、防具もなく厳密なルールもないネメス流の打ち合いではあまりアドバンテージにはならない。彼が巧いのは躱す技術だけであって、勝ちを狙いに行けるわけではなかった。
正確には狙いに行っていない。防戦一方になるように動いている。
剣の技量だけで見れば両者に差はほとんどない。が、加護の有無は存在する。
初めの頃はそうでもなかったが、リーリエは時折打ち合いで加護を使うようになっていた。それはトオルの剣の技量を認めての事だ。
ほぼ互角であれば、ヒヤリとする瞬間は多くなる。
となると加護を使ってしまうのだ。負けそうになれば加護を使うのは当たり前だ。卑怯なことではない。神から授けてもらったものを使わないという発想はネメスの人々には薄かった。
そうなればトオルはあっさり負けてしまう。
そのため、加護を使わせないよう立ち回っていた。
もしくは、使われても安全なように。
「ふっ」
トオルは息を吐きながら体を捻り、その動きで剣を横薙ぎに振るう。
それは背中に向けての攻撃だった。
足音が聞こえたわけでもなければ、気配を察知したわけでもない。
リーリエならば、前転の後数歩の距離ぐらいであれば一瞬で詰められるからだ。
彼女にはそういう加護がある。
トオルの予想は正しく、リーリエの剣がトオルの剣を受けた。
ちょうど背を見せていた体勢から九十度移動した位置。それは横っ腹をリーリエに向けている。
縦に蹴る時よりも真横に蹴る方が難しい。剣を振っているならなおさらだ。よってトオルは瞬時に蹴りに移動できず、代わりにリーリエの蹴りを受けることになった。
「流石トオルだな。あそこで剣を振るわれるとは思ってもみなかった」
思ってもみなかったものに反応したらしい。化物っぷりにトオルは霹靂としつつ、
「私もあれを受けられるとは思いませんでした」
と言い笑っておいた。
「そろそろ登校時間だな。私は湯あみをしてくるが」
そう言ってリーリエは黙った。間をトオルにくれたのだ。
「私は拭くだけで十分です」
「そうか」
リーリエは残念がっていなかった。断られると理解していたのだ。
トオルに訊かず、断る間を与えていることからそれはわかる。
リーリエが無理強いしない雇い主でよかったとトオルは安堵した。
「お疲れ様です」
濡れタオルを持ったニクルがトオルの部屋の窓から手を振っていた。トオルも返し、歩き出す。
ニクルと一緒にトオルは自室に戻り、熱かったので服を脱いで下着も外す。ニクルがいても問題はない。上半身だけであれば女性そのものなので、晒すのは構わないのだ。
「ニクル、タオルを」
「私が拭きます」
意気込みを感じさせるニクルの声にトオルは口元を緩めた。
「お願いするよ」
「それでは」
トオルは髪を後ろ髪を上げて、頭の後ろで押さえた。
誰かに体を触られるというのはいつになっても慣れず、何度か身じろぎをしてしまう。
腋を拭かれた時は声を上げてしまった。
「お姉さま、可愛いですね」
ニクルは笑ったあと、トオルの首筋に口づけした。彼女にしては少し大胆な行動である。
「まだ拭いてなかったろ。臭くない?」
「いいえいい香りです。ずっと嗅いでいたいです。味はすっぱくはありましたけど」
鼻を鳴らしながら、ニクルはタオルで優しくトオルの肌を撫でるように拭く。
そのもどかしい動かし方のせいで、トオルの体は鋭敏になっていった。
触られていないはずなのに、嗅がれていると体中がむず痒い。タオルの感触も加わって、甘い声がでそうだった。
が、それは恥ずかしいので堪える。
我慢しているせいか、尿意に耐えている時のような寒気が体中を走ってくる。これはまずい。胸なんか拭かれた日にはどうなるのか。
「ありがとう。もういいよ。タオルだなんてニクルはとても気が利くね」
トオルは礼を言う事で中断させた。
「これは姉さんが」
「クロが?」
トオルはクロに嫌われていると思っていたので少し驚いた。
「はい。きっと終わったらタオルで拭くだろうから行ってきたらって。タオルも用意してあったんです。どうも火傷の一件から、ずいぶん色んなことに気を回しているみたいで」
「そうなんだ」
ようやくクロからの好感度が上がりそうだ、とトオルは内心ほくそ笑んでいた。
「大丈夫だよ、って私が言っても聞いてくれなくて。包丁なんて握れないんだからすべきじゃなかったって謝るだけなんです」
「クロは料理ができなかったの?」
「ええ。しているところを見たことがないから。あんなに落ち込まなくてもいいのに」
「時間が解決してくれるさ。ニクルが元気そうにしていればね」
「ですね。今日はいいこともあるし」
「楽しみだね」
何がかは知らないが適当にトオルは答えた。
制服に着替え部屋を出ようとした時、ニクルが肩を叩いてきた。
「間が開くので、お姉さまにキスしていただいたら最高な一日になります」
そういってニクルは手を後ろに回して、目を瞑った。
もちろん、トオルはニクルの最高の一日のために協力をした。
バイル学園は朝から騒がしかった。一箇所、人だかりができている。その周りに人がどんどん増えていった。
いつもこうではない。誰でも教育を受けられるわけではないので、学園に通う者は礼儀正しい少女が多い。このように同じ場所に集まり騒ぐというのは滅多になかった。
何事だろうかと登校してきたばかりのトオルとリーリエは顔を見合わせた。
「みんな掲示板を見ているようだね。まだ時間があるし行ってみようか」
リーリエが掲示板の方に歩いていくと、人だかりに道が出来る。
ひそひそとリーリエの方を見て、生徒たちは何かを話していた。
よくわからない視線をそこら中から向けられるのはあまりいいものではない。
そう感じトオルは生徒たちの行動に眉をひそめたが、リーリエは素知らぬ顔で歩いていく。
少し口角を上げ、胸を張る。気品を感じさせる余裕の表情。リーリエはいつもと同じ顔だった。
ふと、トオルは思った。リーリエのこの表情が崩れる時はどんな時なのだろうか、と。
「ふむ、学内一の美人は誰だ、か」
リーリエに言われ、トオルも掲示板に視線を向ける。
そこにはリーリエの言った通りの言葉が印字された新聞が張ってあった。
一位はリーリエ・イノ。二位にルシル・ラーチ。そこまでは見られたが、三位は新聞の近くにいる背の高い生徒のせいでトオルからは見えなかった。
この手のランキングに自分が載ることはないだろう、とトオルは考えていた。この世界の人々は日本にいた頃と比べて美形が多い。菊池トオルであった頃の彼が、今の彼を見れば一目惚れものだがネメスの中で見ると際立った美しさはない。
リーリエやステラは際立ったものがあるし、ニクルやパルレはとても可愛く愛嬌がある。トオルにはそういったものが自分にはないと自覚していた。
それでも悲観はない。今の自分の体で十二分に造形というカテゴリーでは満足しているからだ。
トオルも自分が美人ではないとは思っていない。上位層にいる自信はあったが、トップ層には入らないだろうと認識していた。
「流石ですね、一位だなんて」
「ありがとう。光景なことだけど、何だか恥ずかしいな。でも君だって三位じゃないか」
再度掲示板を見てみると確かに三位にはトオルと書いてあった。
トオルは心地よさと恥ずかしさがないまぜになって、結局意識して笑顔を作る羽目になった。
嘘ばかりついていると、素直に喜べなくなるらしい。
「ありがたいですね」
「ああ。でも、君が一位だと思うんだけどね。私の中ではそうだから」
ふざけた様子もなくリーリエが言った。
数秒沈黙が続き、リーリエが訂正しないと確信すると、周囲から黄色い叫びが乱立した。
一気に引火していく。その気持ちもトオルには分かった。
リーリエの台詞はあまりにも王子様すぎる。だが、それに違和感がなく不快感もなかった。
言われた本人が、台詞の破壊力に一番戸惑っているのだ。
まったくもう、と心の中でトオルはリーリエに語りかけていた。
と同時に口説きの参考になるなと考える彼もいた。
「リーリエさん」
掲示板を見ていると、リーリエが教師に呼び出された。
もちろんお叱りのためではなく、何かのお伺いだ。恭しい声と態度でわかる。リーリエは一人で行くと言い、教室で合流することになった。
講義までの時間を潰そうと校内を歩いていると、トオルは前方から自分の方に歩いてくるパルレを見つけた。
機嫌でも悪いのか腕を大きく振り、足音が聞こえてきそうなほど力強く踏み込んでいる。
パルレはとても小柄なので、怒っているように見えても可愛らしい。
トオルは彼女を避けることを選ばず、あえて顔を出すことにした。
「やあ、パルレ」
「あ、トオルさん」
今までの歩き方が嘘かのように礼儀正しいお辞儀をして、パルレは小さくはにかんだ。
「朝からどうかしたの?」
「あ、いえ。何もないです」
パルレは首を二度横に振り、左右均等に揃えられた金髪が広がった。
慌てて首を振っていたので、何もないことはないだろう。けれど、彼女の表情には切迫したものがなかったので、トオルはこれ以上追及しないと決める。
「そういえば新聞見たよ。みんな見てた。人気だね」
「あ、その」
言いよどむパルレに、トオルは眉を上げることで続きを待つと示した。
「その、ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「トオルさんの順位が低かったものですから」
「ああ、そんなことか。いいんだよ、誰にどう思われようが。というか三位って相当上位じゃないか」
「ルシル先輩よりトオルさんの方が綺麗です。あっちは貴族ですけど、トオルさんは神旗だって持っているのに」
トオルは苦笑いするしかなかった。彼が持っているのは神旗ではなく人騎だ。同じジンキという読み方だが、二つの性能は雲泥の差がある。神様から与えられた武具である神旗は、人騎の性能の全てを凌駕する。
人騎を神旗と思わせるなど、大嘘もいいところだ。このことを知っているのは、人騎を用意したステラと見抜いたリーリエだけである。一度でも疑われるとトオルは躱しようがない。
加護があるという嘘と合わせて大きな弱点だ。日本でいた頃の学歴、経歴の詐称よりも大胆であくどい行為である。
だが、トオルも話題に出された程度では動揺しない。
苦笑いしたのは別のことの方が大きい。パルレの怒りだ。
自分のことをここまで思ってくれるというのは嬉しいけれどむず痒い。そして、パルレがあまりに可愛らしかったので苦笑いになった。
そろそろか、とトオルは周囲を確認する。人通りの少ない通りだ。トオルは注目されることもあって、わざとそういう道を経由している。パルレも機嫌が悪いのを見られたくなかったからここを歩いていたのだろう。
「パルレ」
トオルはパルレの名を呼んで、背中から彼女を抱いた。
驚きで強張ったパルレの頬に口をつけ、抱きしめる手を強くする。
「ト、トオルさん」
「なあに?」
「誰かに勘違いされます」
パルレは首を捻って、後ろにいるトオルを見た。
トオルは抗議するパルレの目を覗き見たが、慌ててはいるものの拒絶の色は見えない。
つまりは続行である。
「勘違い? どう思われたって構わないよ。パルレとなら光栄さ」
構わなくはないが、ついハグをしキスまでしてしまっている。姉妹ならスキンシップと言い逃れられるが、二人は無関係だ。罰されはしないだろうが、変な噂はつく。
ここでトオルがパルレとの関係がネガティブなものであると思っているという印象を、パルレ自身に持たせるのはあまりにも酷だ。
無許可の女性同士の恋は禁じられていて、加護の剥奪というこの世の最底辺まで落とされるに等しい罰が下されるかもしれない。
そのことに勇気をもって踏み出してくれた相手に、不安感を抱かせるなどあってはならないことだ。恋の相手が邪険に思っているとしれば深く傷つく。ただでさえ、不安に満ちている。せめて、自分といる時は安心してもらいたい、とトオルは考えていた。
結局の所、それも建前でしかない。初めの行動は衝動的なものだ。
「あまりにもパルレが可愛いから止められなかった」
「あ、もう」
トオルが首筋に鼻を押しつけても、パルレはそう言うだけで抵抗しなかった。
「ありがとう。パルレがボクのために怒ってくれるだけで胸がいっぱいだ。本当に嬉しいよ」
「どういたしまして?」
混乱しているのか上擦った声でパルレは言った。
またもや可愛らしすぎて、トオルはついちょっかいを出してしまう。抱きしめていた手で、パルレのスカートの上から優しく彼女の内ももを撫で上げた。
パルレが身動ぎするのを見てトオルは満足する。
これ以上のスキンシップは誰かに見られて誤魔化せない。
トオルは最後にパルレの耳朶を手で撫でてから離れた。
トオルは二時限目の講義を一人で受けた。何か用事があったわけではない。これが通常だった。
リーリエの従者とはいえ学園の中で四六時中一緒というわけではなかった。三割ほどの講義が噛み合っていない。
わざとそうしたのではなく、結果的にそうなった。講義の選択はリーリエの従者になる前に行っていたからだ。
しかし、変更も可能ではあった。リーリエがそのままでいいと言ったのでこうなっている。
これもまた普通ではない。従者というのは日本で言う親友に近い関係性だが、初めからそうではないし、上下関係がないわけでもない。あくまで差がある中での交友関係だ。弁えるところは弁える。
だが、リーリエはその辺りの境界があやふやだった。
リーリエの前任の従者は全て一緒だったそうなので、普通の従者に対する距離も理解しているはずなのだが。
トオルはそんなことを考えながら校内を移動する。二時限目が終わると昼食だ。講義はリーリエと違ったが、食事は一緒に取ることになっている。
「トオルさん、お手紙が届いていますよ」
廊下で庶務の人間から声をかけられトオルは足を止めた。
拡声機のようなものや、電話のようなものもあるが、あくまで貴族のものだ。一般的な情報の伝達は手紙だった。なので、生徒宛に届けられた手紙を渡しに行くというのも学園の庶務の仕事だった。
「ありがとうございます」
礼を言って受け取る。
封筒を開けると、医者戦争と書かれた紙が入ってあった。
エニティンに頼んでおいたものだ。ラッドとランクラーの抗争が始まったのだろう。
トオルは食堂ではなく庶務に行き、ステラ宛に手紙を書いた。
ステラも既に知っているとは思うが、念のために抗争のことを書き、何かあれば力になる事。心配だから明後日までに一度顔を出す事を記した。
ついでに一泊していこうとトオルは心の中で決める。ステラと気兼ねなく風呂に入って、彼女の大きな胸を枕に湯船に浮くのは大変心地よい。
手紙を出すと十分の遅刻だった。トオルは走って食堂に向かう。
既に食堂はいっぱいになっていた。縦長のテーブルが平行になるよういくつも並んでいる。前方で食事を受け取り、テーブルにつくという形だ。食堂の利用料は学費に含まれているため食べるのに現金は必要ない。
人が多くいてもリーリエを見つけるのは容易だった。なぜなら、彼女のいる席だけ誰も寄り付いていないからだ。
賑わっている食堂の中に不思議なスペースがある。それはリーリエの周りだ。綺麗に二席分、開けられていた。
彼女は二人分の食事を前にして待っている。
リーリエが嫌われているわけではない。
有名人に対する気後れでもなければ、権力者に怯えているわけでもない。
仮にそうだとして、そのどちらもリーリエという少女には似合わぬものだ。気さくな彼女なら初めはそう誤解されても、すぐに払拭していただろう。
前の従者がリーリエに寄せ付けなかったというのもあるかもしれないが、それよりも大きな要因がある。
それは崇拝だ。
リーリエ・イノという存在は神に等しいもののような扱いを受けている。イノ家の母が大神官としてこの国に勤めているからだ。
大神官はただの権力者ではない。神に最も近い位置にいる人間だ。人の身では決して超えられない存在への畏れは深く根強い。
ネメスでも日本でも神の存在を身近に感じたことのないトオルには実感の薄いものではある。だが、長年生活していれば、ネメスの人々の信仰の厚さについては知っているつもりだ。
そもそも、ネメスの女性は力の特権を取り上げられる可能性があるだけで従わざるを得ない。
だが、ネメスの人々は力の喪失に怯えて崇めているわけではない。神様が自分たちを見守って力になってくれることを感謝し、全幅の信頼を寄せている。
そんな存在に近いのは、計り知れない価値であり名誉なのだ。
同年代にもかかわらず、相手を崇めてしまうぐらいには。
「待たせてすみません」
トオルがリーリエに近づくと彼女は笑って首を振った。
「いや、私のわがままだから。君と出会ってから、どうにも一人で食事をしたくないんだ」
そんなことを言われると、ステラの様子を見に一日空けると切りだしにくい。
珍しく少し寂しそうなのも効果倍増だ。
とりあえず食事を取ることにした。
食事中も、トオルはステラの元に行くことを考えていた。それがいつの間にか彼女の家でどう過ごすかになっている。まずは風呂を様々な意味で満喫するか、などと真昼間からよからぬ妄想に耽っていた。
「そういえば今晩のお店、どうしようか?」
昼食を食べ終えたタイミングでリーリエがそう尋ねた。
トオルは何の話かわからなかったので、そのまま疑問を投げかける。
「どういうことでしょう?」
「すまない。言いそびれていたかな。今日は外で食べるつもりなんだよ。あと、トオルには家事を手伝ってもらいたいんだ。私もせっかくの機会だしやるよ。いつもそうしている」
ニクルたちの好感度上げるために、屋敷の仕事を手伝っていたので支障はなかったがトオルには疑問があった。
「構いませんけど。そういえば、ニクルたちは?」
「暇を出した」
トオルはそう言われ合点がいった。今朝、ニクルが間が開くと言ったのはそのためだろう。
実家に帰る楽しみもあって、最高の一日なのだ。
相変わらず可愛いことをいう子だとトオルは頬を緩めた。
そのことを気取られないよう、笑ってごまかす。
「そういえばニクルから聞いていました。実家に帰るんですよね」
もちろん聞いてはいない。が、それはそれで面倒なのである。
自分に非があることに対して、リーリエは重く受け止めてしまう。
そうなると話がスムーズに進みにくいので、トオルは嘘をついたのだった。実家に帰ると言ったのもただの予測だ。
「クロとニクルは両親や兄弟がスラムに住んでいるからな。以前はふた月のうち数日は臨時の使用人を雇っていたが、前々から家事をしてみたくてね。この機会にしてみようと。でも、初日から全部は難しいから、食事は外注にしたい」
またしても仰天発言である。使用人に暇を与えることは滅多にない。あるとすれば親が病気になるなどの一大事ぐらいだ。貴族からすれば買ったモノで消耗品なのだ。特殊な加護持ちならあり得る扱いだが、加護なしの少女には特例と言える扱いだろう。
一般的な貴族とは大きく異なると思っていたが、ここまで徹底しているとはトオルも予想だにしていなかった。この世界で絶対的支配者であるリーリエがどうしてこうなったのか、気になるところだ。
トオルがリーリエの端正な顔を見ながらあれこれと邪推していた時、あることを思い出し頭が急激に冷えた。
「確か彼女たちの出身地はランクラーでしたよね」
「ああ。それがどうかしたか?」
トオルが思い出した時には、使用人たちの出身地がランクラーであることはわかっていたが、確認せずにはいられなかった。
スラムではどこも治安が悪いため、場所は問題ではない。が、ランクラーでこの時期はまずかった。
トオルはリーリエがいたので、舌打ちの代わりに人差し指の爪で親指を刺した。スラムの小競り合いでランクラーが標的にされている、とステラに忠告したばかりではないか。平和ボケという奴だ。
トオルはニクルたちを未然に助けられなかったことをまず悔やんだが、次には彼女たちをリーリエから失わせれば、隙が出来るのではないか、と思った。同時にそんなどこまでも利己的な自分が気持ち悪かった。
トオルは思わず笑ってしまいそうになる。気持ち悪いだって?
そんなことをスラムにいた頃なら思わなかったかもしれない。しかし、目の前にいる陽の存在が、トオルの薄汚い影を照らしていたのだ。
急に表情を険しくしたトオルを心配するように、リーリエがトオルの前髪をそっと払った。
「光の加減じゃないようだね。何か気に障ることをしたかな?」
心の底からそんなことを言える仮初の主人の存在が、トオルから打算を取り払った。
「ランクラーが襲撃されます。スラム内の小競り合いの情報です」
何故、スラムの小競り合いについて知っているのか、と疑われる可能性も、使用人たちを失わせることでリーリエと距離を詰めるという考えも捨て去った。
そして、トオルにはこの発言が自分に危険を招くとわかっていた。今までついてきた嘘がバレて主人を失う可能性があるし、スラムの抗争に巻き込まれて自分が死ぬ可能性もある。リーリエがスラムで殺されることはないが、加護がないトオルにはあり得る話だ。
トオルの頭はスラムに行った後について考えを巡らせていた。
なぜなら、リーリエという少女は使用人を見捨てないからだ。スラムに行かないという選択肢はない。
「ありがとう。いますぐ向かう。その、トオル」
トオルの予想通り、リーリエは使用人たちの救出を即決した。しかし、その後がどうにも歯切れが悪い。何を言うのか推測もできなかったので、トオルは大人しく待つことにした。
リーリエは顔を赤くして、トオルのほうをちらちらと見る。いつもクールな麗人である彼女とは真逆の女の子らしい態度だった。
「君も来て欲しい。どうやらスラムについてよく知っているようだし、私は万能じゃない。もちろん強制ではないよ。無理だというなら私一人で行くから」
放っておけば、リーリエはずっとトオルを気遣う言葉を紡ぎ続けていただろう。そうならなかったのは、トオルが返答をしたからだ。
「もちろん。お供させていただきます、お嬢様」
恥ずかしい台詞が勝手に口から突いて出ていた。
トオルが赤くなることはなかった。
なぜなら、リーリエが乙女みたいに口を両手で覆って感極まっていたからだ。こんな可愛らしい仕草も出来るらしい。
「ありがとう。初めてのワガママで緊張したんだ」
リーリエはそう言って、席を立った。
次回は二十七日の二十時に更新です。
三十六話は文量が減っていますが、三十七話から戻りますので何卒宜しくお願い致します。