三十四話-朝帰り
トオルはリーリエの屋敷の前につき、一度引き返した。
挙動不審なのは、何か用事があったからではない。帰宅する度胸がなかっただけだ。
計画では、パルレを暴漢から助けて一気に畳みかけるつもりだった。目的を果たして帰るつもりだったのである。
が、トオルの気の迷いから、攻撃をわざわざ受けて昏睡してしまった。起きてみれば一日経っていた。
つまりは無断外泊である。そしてこれから行うのは朝帰りだ。
従者として雇われている人間が、無断外泊はよろしくない。朝帰りだってもちろんよくない。
それも勤続年数が一年も経っていない新米が、だ。
しかも、近頃はパルレの攻略のため度々休暇をもらっていた。
貴族とは思えぬほど優しい雇い主に甘えていたことを自覚する。
トオルの頭の中では、許してもらえるだろうという打算があった。しかし、心のどこかで不安がってもいた。
彼はリーリエが怒っているところを見たことがない。怒らない人ほど、怒らせると怖いというのはネメスでも変わらない。
善人の模範のようなリーリエの場合、どうなるのかと恐ろしくて仕方ない。
一度でも怒っている所を見れば、どの程度の恐れが来るのか予測がつく。が、未知というのはいくらでも不安が膨らんでしまう。
一体どんな風になるのだろうか?
トオルはどこかに閉じ込められていた。いつ連れてこられたのかは覚えていない。石造りで日の光りが入らない部屋。壁にある蝋燭の灯りだけがトオルを照らしている。扉が一つあるだけで家具は何一つない。
逃げることはできない。手足に一つずつ枷がつけられている。枷は数字の8のような形をしているもので、遊びがなくまともに動かせない。なんとか立って歩いても、這いつくばるよりも遅いほどだ。扉も当然開かない。
加護のないトオルでは枷を破壊することはできない。足がこうでは加速のスキルも役立たない。お手上げだった。
枷を地面にぶつけてみたり、力いっぱい引っ張ってみたりしてみたがビクともしない。出来ることがない以上、トオルはじっとしているしかなかった。
両性具有という体だが、ネメスでの彼の体は日に日に女性的な丸みを帯びてきている。胸の隆起はもちろんのこと、骨盤が発達して尻が大きくなってきていた。寒さを鋭敏に感じるような気もする。そうでなくても悪い環境だ。床についている尻も痛い。
ここは地下なのだろうか、などと考えていると扉が開いた。
「リーリエ」
知った顔だったので、トオルは安堵の声でリーリエの名を呼んだ。
が、少しずつトオルの安堵はしぼんでいく。
入ってきたリーリエの格好が異質だったからだ。光沢のあるエナメル生地の恰好だ。それは服よりかは下着か水着に分類されるだろう。
トオルは眩暈で目を瞬かせた。リーリエが着ているのは、日本で何度か目にしてきたSっ気のある女王様が着ている恰好そのものだった。
リーリエの下着は過激なネグリジェだったが、それを遥かに超える衝撃だ。いくらなんでもこれはない。ドッキリでも仕掛けられているのではと思ってしまうほどだ。
トオルは笑おうとしたが、彼の足の数センチ横に鞭が振り下ろされたので止める。いつの間にかリーリエが握っていた。
「口を開け」
命令口調にトオルは文句も言わずに従う。反射的な行動だった。
今のリーリエには有無を言わさず相手を従わせる迫力があった。それが訓練や計算によって築きあげられたものではなく、生まれ持った才能のようなものだと思わせる別格の迫力だ。
どれだけ開けばいいかわからず、トオルは目一杯に口を開けた。
リーリエはそんなトオルを見て顔色一つ変えない。蔑まれるよりも、無言の目が滑稽だなと強く言っているような気がトオルにはした。
ずっと何もしないのでトオルが口を閉じようとすると、リーリエはトオルの顎を掴んだ。
「閉じるな」
リーリエはトオルの頬に爪を立てた。トオルが痛みから頷くと、手を離す。
だが、近づいたまま遠ざかることはない。
しばらく座ったトオルをリーリエは立って見下していたが、ゆっくりと右手を伸ばし始めた。
リーリエの右手はトオルの顔に徐々に近づいてくる。何をされるのか全く予想がつかないトオルは、ただただ身体を強張らせるだけ。
それが恐れから来るものなのか、期待から来るものなのかはトオル自身もわからない。
まずリーリエの指と接触したのは上唇だった。リーリエは人指し指の爪先で触れ、少し力を込めてトオルの上唇をなぞった。歯茎が見えるほど押したりしていると、ふいに唇から離れ、口の中に入れた。
「嘘をつくのはこの舌だね」
リーリエはトオルの舌を引っ張って、口の中から外へ出した。
自分の唾液の臭いがしてトオルは不快だったが、リーリエに舌を引っ張られていることに対する不満はなかった。
「どうしようか?」
リーリエはそう問いながら、トオルの舌を指先で押し、爪先でゆっくりと撫でた。
舌の力を入れないでおくというのは難しく、トオルの舌先はリーリエ指を追うように動いてしまう。
そこで初めてリーリエの表情に色が差した。微かだが笑みが咲く。
リーリエは優しく、けれどもしっかりと力を入れて指の腹で舌を撫でた。
「悪い舌は食べてしまおうか」
自然な流れでそう切り出すと、リーリエはトオルに顔を近づけた。
直前で彼女は口を大きく開けた。白い歯と綺麗なピンク色の舌が見える。その中にトオルの舌が入っていく。
既にリーリエはトオルの舌を引っ張ていない。もう自由だ。だけど、トオルは舌を出している。ずっと舌を突き出していたので顎が疲れているにも関わらず、舌を懸命に出していた。
「いやいやいや、妄想がたくましすぎる」
膨らんだ不安から生じた妄想をトオルは頭を振って消した。
「俺はMっ気でもあるのか?」
頭を傾けながら、トオルは屋敷へと歩いていく。
混迷が度胸の代わりに、足を進めさせていた。
やましいことがある時、背筋を丸めていてはならない。こういう時こそ、意識して堂々と歩くべきである。
そんな風に考えるトオルは胸を張って屋敷の門を潜った。
「やあ、ご機嫌だね」
リーリエの屋敷は門を潜ると庭がある。そこにリーリエはいた。
朝の運動でもしていたのか、汗をかいている。長い金髪を束ねていて、額から首筋へ、首筋から鎖骨へと伝う雫が観察できた。
髪を束ねることで、彼女の顔の形の良さがよくわかる。人形のような精確な造形だ。
トオルはリーリエに見惚れていて、自分が朝帰りをしていたことなど忘れていた。
彼が思い出したのは、リーリエがトオルの方に近づいてきたからだった。後ずさるには遅く、リーリエはトオルの眼前に立っていた。
リーリエに舌を引っ張られた妄想を思い起こしてしまいトオルはさらに鈍る。
その隙にリーリエはトオルの顎を掴んだ。まるで妄想をなぞるような展開にトオルは頭がパンクしそうだった。
「気のせいじゃないな。顔色が悪い」
トオルの顎を少しずつ動かしながらリーリエは言った。
「ゆっくり休むといい」
リーリエは微笑み、トオルから離れた。
トオルは赤面してしまう。妄想通りにいくかもと期待していた自分が恥ずかしい。リーリエの微笑みにもやられている。何より無断で朝帰りした従者に嫌味一つ言わないリーリエに驚かされた。
堂々として誤魔化そうとしていた自分が情けなくなって、トオルは謝罪の言葉を舌に乗せる。
「すみません。その、勝手に外出をして」
「そんなことで怒るものか」
リーリエは鼻で笑った。
「どうしてか聞いても?」
「君は私を蔑ろにしているわけじゃないと知っているからさ」
トオルの驚く反応を見て、リーリエは続けた。
「そういうのはわかってしまうんだ」
それでトオルも納得する。人の心がわかる加護というのが存在することは彼も知っていた。何も思考を読み取れる訳ではないらしく、相手の向けている感情がおおよそわかるとか。
その類の加護に関してはトオルも警戒していた。しかし、トオルは不安をあまり感じていなかった。秘密が暴かれるようなものでないなら関係ない。
「それにね、君のそういう所がいいんだ。掴みどころがない。今まで見たことがないんだよ。私にへりくだらないのもね」
「普通、怒る所では?」
トオルはついつい本音で言い返してしまった。
掴みどころがなく、雇い主にへりくだらない。加護がなくスラム出身であることを隠しているトオルにとって、自分に対するリーリエの評価はいいもののようには思えなかった。
なので、トオルはつい口が滑ってしまったし不安にもなった。リーリエは本当に自分のことを疎ましく思っていないのか、と。
彼女から嫌味の一つでも言われればこんなことはなかった。そういう不満が出るという事は、期待されているということでもある。攻めるべき筋道も見えてくる。一方、不満がないということは期待されていないとも取れる。望まれないのであれば、何もできなくなってしまう。
失望されるとなるとトオルのキスの効力は発揮しない。あれは元からある好意を増幅させるものだ。一が百になり得ても、零が一になることはない。
リーリエはトオルに問われてすぐに首を横に振った。
「怒るなんてとんでもない。君という友を得られて本当に嬉しいんだ」
リーリエは微笑んだ。彼女の表情には、少なくともトオルの前では計算がない。赤子のような純真な反応を示す。
それはトオルの笑みとは違う。トオル自身もそのことを理解する。彼の表情は意図的に作ることが多い。
相手を安心させようだとか、逆に緊張感を与えようだとか、なんらかの意図で表情筋を動かす。
その違いとリーリエから向けられる信頼をトオルは理解していた。
だからこそ戸惑う。キスもしていないリーリエがどうしてここまで信頼してくれるのか。
しかし、それを口にすることはなかった。混乱していてもその程度の分別は働いている。スラムという無法地帯で秘密を抱えながら生きていたトオルにとって、この程度の戸惑いでは正気を失わない。
「私は君に憧れているんだ。トオルは人と仲良くなるのが上手い。人それぞれのツボを見つけ押さえる技術を持っている」
「そうですかね」
「そうだよ。でも、それは表面的なものなんだ。もっと言葉にできない魅力がある。だから、私は君に夢中で、君という人間が好きなんだ」
リーリエの声には愛の告白という重さはなかった。人に好意を示す言葉が、好きしか知らない子供のような声だった。
それでもトオルは胸を掴まれたような気になる。告白などではないとわかっているにもかかわらず、真に受けてしまいそうな自分がいる。
「ありがとうございます」
だから、たった十文字の言葉を紡ぐのにも時間を要した。
「礼を言われることではないよ。トオル、顔色が悪いままだしひと眠りしてきたら?」
「そうします」
トオルは二時間ほど眠ってから、ニクルの元を訪れた。
ちょうど昼前だったのでニクルは昼食の準備をしている。クロはおらず、いつも通り一人で調理しているようだった。ちょうど炒め物をしている。
「トオルお姉さま」
トオルが声をかけるよりも先にニクルが振り向いた。
彼女はトオルに駆け寄ろうとしたが、自分が火を扱っていることを思い出したようでフライパンの方を向いた。
「今日はゆっくりしていられるんですか?」
「ああ」
「嬉しいです。じゃあ、今日のおやつは少し凝ったものを作りますから、楽しみにしていてください」
「そうさせてもらうよ。ニクル、何か手伝うことはないかな?」
「じゃあ、スープの方をお願いしていいですか。今日はコーンのスープの予定で」
ニクルが話している最中に足音が聞こえてきた。
キッチンの扉が開いたので、トオルとニクルは話を止めた。
「ニクル、終わったから今日も手伝うわ」
そう言いながら入ってきたのはクロだった。基本的にクロが掃除と洗濯、ニクルが料理という分担だ。大雑把に分けたもので、ニクルが掃除や洗濯を全くしないということはない。クロも料理こそしているところをトオルは見ていないが、クロが食材の買い出しや管理を行っているのは何度も見た事がある。
「あ、お姉ちゃん。今日はトオルお姉さまが」
ニクルが笑いかけると、クロは目立たぬよう小さく唇を噛んだ。
「私もやるわ。三人でした方が早く済むし」
「うん。じゃあ、お願い」
クロはキッチンで立ち尽くしていた。手伝うと言ったものの、何をすればいいのかわからないのだろう。家事分担が固定されていて、料理をしたことがないのかもしれない。
ニクルは姉の様子に気づかず、鼻歌を奏でながらフライパンを扱っている。
一つ息を吸い、トオルは気持ちを作る。自分が声をかければ疎まれるのはわかっているが、クロを棒立ちにさせておくのは可哀そうだ。
「じゃあ、クロはソースの方を見ていてくれるかな。こっちはコーンをすりつぶすから」
ミキサーがないので、コーンをすりつぶし裏ごしして、ベシャメルソースに加えることで完成する。
ソースはニクルが既に作っており、コーンをすりつぶしている途中だった。火を見ながらするつもりだったのだろう。
手作業でコーンをすりつぶすのは一苦労だ。単純作業とはいえ、慣れていない人間が行うと効率が悪い。
そういうわけでトオルは、火元を見ていればいいソースの方をクロに任せた。
左からトオル、クロ、ニクルという並びでしばらく黙々と作業が続く。途中で、ニクルが声を上げた。
「トオルお姉さま、ニンニクをすりつぶしてもらえますか? 皮は剥いてあるので」
「私がやるわ」
「そう? じゃあ、お姉ちゃんお願い。すり鉢がもうないから、包丁を使って」
「うん」
返事をしたものの、クロが包丁を扱う気配がない。
何かトラブルだろうかとトオルは隣を見る。
顔を真っ青にしたクロが包丁を両手で持っていた。料理をしようという扱い方ではない。
トオルが声をかけるよりも先に、クロが包丁を落した。
真横に落ちたため、包丁は少し跳ねただけで誰も傷つけなかった。
が、その音に驚いたニクルが反射的に身を縮こませる。その途中、加熱しきったクロの見ていたフライパンに左手が当たってしまう。
金属同士が響く鈍い音が鳴り、ニクルが悲鳴を上げた。
「いたっ」
クロが真っ先にニクルの左手を取ったが、固まってしまう。
トオルは水を汲んであった桶を持ってきてニクルの手をつけさせた。その後、氷を桶に入れる。
ネメスでは氷を生じさせる加護があるため、氷は安価で買う事ができた。常に備蓄してある。
キッチンを見ると、クロが作っていたソースが零れていた。ニクルの火傷の跡を見ると、軽傷そうだがソースが飛び散って広範囲にわたっていた。
「料理は私が見ておくからニクルは休んでおいて。クロはリーリエに医者を呼んでもらって、ニクルの氷を変えてあげて」
「ごめんなさいです、お姉さま」
「すみません、トオルさん」
トオルは努めて優しい声音を出したつもりだったが、クロの返事は重苦しいものだった。
ニクルはリーリエが呼んだ医者から癒しの力を受け、火傷はほとんど引いた。跡も残らないだろうとのことだったが、数日は皮膚がヒリヒリするらしい。
ほぼ健康体のニクルだったが、トオルは彼女を丁重に扱う。ニクルの代わりに夕食の用意をし、彼女の手を取り部屋まで連れていっておやつを食べようとしていた。
いつもはニクルが準備してくれているお茶とお菓子をトオルが用意した。利き手が無事なのでニクルは片手で受け取ろうとしたが、トオルがそれを制した。
「はい、口を開けて」
椅子に座ったニクルは少しはにかんだ後、あっさりと受け入れた。口を大きく開けている。素直な少女なのだ。
フォークで一口サイズに切った菓子を、トオルはニクルの口に入れてやる。
彼女は神妙な面持ちでニクルは口を動かしていたが、四度歯を合わせた時に微笑みに変わる。
「トオルお姉さまのお菓子美味しいです。甘い部分が舌にしっかりと感触を残していて、パンがふわふわで」
「それはよかった」
トオルが作ったのはどら焼きのようなものだった。
あんの材料である小豆はネメスの市場に出ている。が、ネメスでは塩で茹でたり炒め物などで食べたりする健康食のような位置づけで、スイーツに使うという発想がないらしい。
ネメスの菓子はかなり甘いため、どら焼きの控え目な甘さやあんの独特の食感を受け入れてもらえるかトオルは心配していたが杞憂に終わった。
「痛みはどう?」
「痛みというより違和感みたいな感覚ですね。ずっと肌に何かが張り付いているような感じがして。大事にならなくてよかったです」
「見せて」
トオルはニクルの手を取り、彼女の火傷の跡に唇をつけて吸う。
唇をつけたままニクルの方を向くと、ニクルはトオルをじっと見つめていた。
舌先でくすぐるように舐めた後、トオルは唇を外す。
「痛みは吸えたかな?」
茶化してトオルは訊いた。もちろん意識してである。軽い奴を演じていないと、恥ずかしすぎて耐えられない。
トオルとて、女の子を口説くのは必死なのだ。自然に演じれるだけで、素でたらしこんでいるわけではない。
それでも、キスのスキルのために甘い言葉を囁き、時には恥ずかしい台詞を言わなくてはならない。
キスのスキルは何も口づけだけではない。
直接唾液を流し込む方がスキルの力は発揮されるが、皮膚の上であってもきちんと働く。
ただし弱い毒なので、既に毒されている相手でないとそれほど有効でもない。
神様の許可なき同性愛がタブー視される以上、大っぴらで深いキスができない。そのため、こうしたスキンシップで毒の継ぎ足しを行うこともあった。
今日はニクルの部屋という密室だが、たまにはこういうのも悪くないとトオルは考えていた。
「効きません」
熱っぽい目をトオルに向けたまま、ニクルはそう言い
「もっとしてもらったら効くかも」
と浮かれた声で続けた。
次回は二十日の七時に予約投稿しました。来週をお待ちください。