三十二話-嵐の前に朝食を
トオルとパルレがクレープ屋から出た時には、空が暗くなっていた。
だが、辺りはそこまで暗くない。店は歓楽街にあるので、灯りがともっている。ネメスには電気はないが、街灯は整備されていた。
「遅くなってしまいました。いつものことですが、私ばかり話してしまって」
「私もいつも言うけど、有意義だったよ。今日は特に」
そして好都合だ。トオルは胸の中でそう呟いた。
当初の計画では夕方だったが、パルレの話に興味があったので引き延ばした。
計画に狂いが出たが、結果的には悪くない。これからすることを考えるなら、夜であった方がいい。
「あの、さっき夢見がちと言いましたよね」
パルレはトオルの顔を見ずに言った。歩いているせいもあるだろうが、彼女の伏目がちの横顔から察するに言いにくい事を言いたいからだ、とトオルは感じ取った。
「聞いたね」
「私ね、夢見がちどころじゃないんです。きっと現実が見えていないんです。加護より愛、って貫き通せると思っているんです」
「そこまで卑下することじゃないと思うけど」
トオルは慰めで言ったわけではなかった。知りようのないことはどうしようもない。
パルレは知らないだけだ。彼女は男を馬鹿にして楽しむ趣味がない。スラムに立ち寄らない彼女は、男性が女性から受けている仕打ちを聞いてはいても理解はできていないのだろう。だから、加護を失うという選択肢を恐れないのかもしれない。
「そうかもしれませんね。でも、相手はそうじゃない。私が好きなった相手も、加護を失っていいなんて考えないでしょうから」
パルレが指摘したのは、トオルにとっても問題だった。
トオルが落としてきた女性は加護のない女性ばかりだ。彼とキスをすることで加護が失うリスクがなかったからキスを拒んだりはしない。
ステラだけは加護があるので例外だが、彼女は落したのではなく事故だった。
トオルは一度も加護のある相手に、キスを実行したことがない。
加護を失うことを恐れる女性の前では拒まれるからだ。
なので、拒まれない関係性を構築する必要があった。
その点を見れば、パルレとはそれなりのものができている。さらには、彼女は女性同士の恋愛に抵抗感がない。
最終目的であるリーリエにキスをする前に、情報ついでにパルレで試そうという目論見は心配なさそうだった。
これから強引にキスをしても成功するだろう。今日、パルレと話して彼女を知って、手ごたえを感じている。
が、念には念を、それがトオルという人間だった。
「あっ」
パルレが立ち止まった。
目の前の路地は灯りが途切れている。歓楽街の終わりだ。大通りであれば平民街にそのまま戻れたが、トオルはわざと遠回りするように誘導していた。ここから先は平民街とスラムの歓楽街の間に、汚らしい路地がある。
全ては計画通り、と彼はわざと笑みを浮かべた。
「幽霊でも出そう?」
「幽霊だなんて信じていませんよ」
パルレが恐れているのは男だ。スラムの路地ではスリなどが横行している。加護のある女性は狙われないが、スラムをよく知らないパルレにはその辺りがわかっていない。もしくはわかっていても安心はできないのだろう。
「大丈夫。私が守るよ。何たって従者だからね、そういうことには慣れている」
トオルがパルレの手を取ると、パルレは小さく頷いた。
「お願いします」
手を握り暗がりに入る。
路地にも灯りがあるとはいえ、十分な光源ではないので月明かりよりかはマシという程度だ。二つ三つなくなるとその場所は本当の暗闇になる。
色はもちろん、物の輪郭すらわからない。
トオルは闇へと一歩踏み込む。わざと大きく足音を鳴らして。
それが合図だった。
闇から足音が響く。それはトオルのものではない。
パルレが強張るのがトオルの手に伝わる。
これで十分だった。
万が一、パルレが戦闘態勢を取るようなら、トオルは自ら転ぶなりして隙を作るつもりだった。
あとは飛来するナイフを弾いて、危機を救ったという事実を作るだけだ。
一瞬、灯りがともる。男はトオルたちの姿を確認して、ナイフを投げた。
「パルレ!」
トオルはパルレの前に出た。
すぐさまスキルを使用する。トオルに宿っているスキルはキスと加速のみ。
今回は後者を使う。
飛来するナイフを止めることなど、超能力なしには不可能だ。キスではナイフは止められない。
ただし、キス同様使い勝手がいいものではない。
加速を使用すると、とてつもない痛みが伴う。水圧で胸が押しつぶされるような圧迫感。長く堪えることは不可能だった。一呼吸が限度。
副作用のせいで、使えるのは一瞬だ。キスよりも使い勝手が悪い。
「っ」
覚悟していても声が漏れる。
痛みは使ったあとだけではない。
使っている間も酸素が薄くなったかのような苦しさがある。
体がどんどんへこむような圧迫感が襲ってくる。
加速で一秒が伸びている。ナイフが到達する数瞬が長く感じる。
その間、痛みはずっとある。
そのせいか変なことを考える時間があった。
「俺は何を踏みにじって、何を成そうとしているんだ?」
自分の声にトオルは答えが詰まる。
だが、何も言えない。答えを探すけれど見つからない。
わかっているのはただ一つ。ここに来た時のような生活には戻りたくない、ということだ。
気づけばトオルの目の前にナイフがあった。
が、避ける時間はある。弾くこともできる。掴むことだってできるだろう。
トオルが選んだのは何もしないことだった。
当然、ナイフが刺さる。
前にいたのはトオルだ。パルレには傷一つない。
闇にいた男は指示通り走り去っている。
もう何も起きない。なので、トオルは気を張る必要がなかった。
「トオルさん!」
パルレの切迫した声を聞いても、トオルはどこか他人事だった。
何せどこにナイフが刺さったのかすらわからない。
熱が出た時のように意識が遠のいていた。
それでもパルレに抱きかかえられているのはわかる。小さい体だから、全部は支え切れていない。
彼女の熱がトオルに計画の存在を思い出させていた。
しかし、それも長く続きそうにない。
すぐさま声をかけた。
「人生最後のキスをくれ」
トオルは自分で言って、唐突すぎたかと反省した。キスをしてくれという意味は伝わっただろう。けれど、建前が用意できていない。
言い訳を考える。薄れゆく意識では考えられず、神様も死の間際の一回ぐらいなら目をつぶってくれる、などと言って押し切ろうとした。
が、トオルの口が動くことはなかった。
それよりも先にパルレがトオルの唇を塞いでいた。
これで無事成功か。
パルレの唇の感触など意識する暇もなく、それだけ思ってトオルは意識を手放した。
トオルが目を覚ますと、視界には豪華な天井が広がっていた。どうやらベッドで寝ているらしい。ここは彼にとって見知った場所だったし、想定内だった。
派手すぎない範囲で装飾が施された白い天井に、シャンデリアがぶら下がっている。リーリエの屋敷はこれよりも質素な飾りつけだった。
「知らない天井」
「寝ぼけているんですか」
トオルの呟きに反応したのはステラだった。
彼女が声を発しなくともトオルにはここがどこだかわかっていた。単に言ってみたい台詞だっただけだ。
ここはステラの自室だった。
トオルはベッドで寝ころんだままステラの方を向く。
「寝ぼけてないよ。助かった、ステラ」
ステラはトオルと目を合わせた後、何も言わずそっぽを向いてしまった。
いくら前世でニートで女性との接点が少なかったとはいえ、これくらいの異変にはトオルも気づける。何かに腹を立てているらしい。
普段のステラであれば、謙遜の言葉は口にする。そうでなくても、無視はない。
「ステラ」
トオルが呼ぶとステラは振り向いた。
手が届く範囲だったのでトオルはステラの腕を取ろうとしたが、ステラは躱した。
これもまた普段ではあり得ないことである。
「トオル様」
今度はトオルが呼ばれた。底冷えする低いトーンで。
トオルはベッドの上で正座した。少し痛んだが無視。
「何でしょう?」
「何故、あんなことを?」
瞬きもせずステラは暗い赤茶の目でトオルを見つめた。
ステラが何に対して怒っているのか、トオルはようやく理解した。
計画通りであればステラが手配した暴漢役の男の投擲を、トオルが弾くはずだった。それがトオルはわざわざ攻撃を受けに行ったのである。ステラが慌てるのも無理はない。
誤魔化しは効かない。ステラはあの場にいたのだ。男からも報告を受けているだろう。
「悪かったよ。考え事をしていてさ。念のためにステラを呼んでおいてよかった。本当に助かった」
万が一に備えて、トオルは癒しの加護を持っているステラを近くに隠れさせていたのだ。彼女が治療してくれたおかげで、トオルはこうして目を覚ましている。
だが、そんなステラにも言えないことはある。トオルが何故怪我をしたのかは言えない。恋を踏みにじった代償などという感傷をステラにひけらかすつもりはなかった。
ステラはトオルが最も信頼している人物だとしても、あくまでスキルで隷属させているに過ぎない。そんな相手に弱さを見せては失望されてしまうし、これ以上迷惑をかけるつもりもないのだ。
「念のためでは足りなかったのですよ」
「どういうこと?」
「私だけの癒しの加護では足りなかったのです」
「そんなに重傷だった?」
トオルは笑いかけたが、ステラは頬を動かしもせず頷いた。
頬の代わりに目が動いていたが、睨むように細くなっただけだ。
ステラも癒しの加護を持っているが、あまり強くない。それは本人から聞いていたことだ。
同じ加護でも効果が違うということはよくあることらしい。その差は先天的とも後天的とも言われている。
「医者を家に待機させていたので何とかなったんです」
「流石だな」
「貴方様の頼みですから、万全を期すのは当たり前です」
ステラを褒めても、彼女は顔色一つ変えない。ピシャリと弾くような平坦な声で返事をするのみである。
トオルは自分の非を認めていたので、素直に謝ることにした。それ以外にこの場をどうにかできる可能性があるとは思えない。
「すまなかった。気を付けるよ」
「お願いしますよ」
ステラの顔色が変わらないので、怒っているのかどうかわかりにくい。
なので、トオルは立ち上がって軽くキスをした。
ステラはサッと離れて、トオルに背を向けた。
「あまり近づかないでください」
「許してくれよ。本当に反省している」
「そのことじゃないのです。その、お風呂にも入っていませんし、肌の方も」
小さな声でそう言った。
トオルはステラの腕を引いて、ベッドに優しく押し倒した。
「ステラは綺麗だよ」
トオルは首筋に口づけし、わざと鼻を鳴らす。
スラムに暮らしていた彼にとって、一日風呂に入っていない程度の匂いは悪臭でも何でもない。ステラの場合、香水を振ってあったので全くといっていいほど臭くなかった。
流石に目元は疲れからか腫れぼったい感じになっているが、それでもステラの美しさを損なうことはなかった。その傷みが、むしろ気持ちを高揚させる。騙しているとしても、彼女の心が染み入る。
「恥ずかしいです」
「ステラがそんなことを言うなんて、久しぶりだな」
「もう」
そんなことを言って顔を背けるステラも久しぶりだった。
何度も様々なことをしてきた二人だが、今はまるで初めて目と目で見つめ合った時のような新鮮さがあった。
トオルはステラと共に汗を流した後、朝食を取っていた。今回もトオルは客人としてもてなされている。
ネメスではパンが主食だった。朝食はサンドイッチか、ベーグルという家庭が主らしい。
ステラの家ではベーグルとミネストローネスープだった。ベーグルはチーズを乗せて焼いたもので、少し硬い食感から甘くとろけたチーズが口に広がる。
怪我を負ったせいか空腹だったトオルは、口いっぱいに頬張って食べた。
食べ終え、食後のコーヒーを飲んでいた時、トオルはあることを思い出した。
「そうだ。リーリエがスラムで使用人を買ったって知ってたか?」
「知りませんでした。下見に来たという噂も聞いていないですね」
イノ家の三女ともなれば、商売人としてはコネを作っておきたい相手だ。重要な相手がスラムに用があればすぐに対応する。
そんなリーリエがスラムに来たとなれば大騒ぎになっていたはずなので、ステラが知っているかもしれないとトオルは思ったのだ。
ステラが知らないというからには、リーリエは秘密裏にスラムでクロとニクルを雇ったらしい。
またリーリエに関する情報をたぐる糸が途切れてしまった。
「すみません、ステラ様。お客様がお見えです」
扉越しの従僕の言葉に、ステラは眉を上げた。少しお怒りらしい。トオルといる時間を削られたせいだろう。
それに予定していた訪問ならいざ知らず、急なものであれば気に障るのも無理はない。世間でもまだ朝食を食べている時間だ。早すぎる。
少しお怒りとはいっても、無表情が多いステラのである。訪問客の名前すら聞かず追い払ったりはしない。礼儀正しい女性だった。
「すみません。少し席を離します」
「気を使うな。ごゆっくり」
ステラは小走りで部屋を出て行った。彼女は勢いよく扉を開く。
扉の前で待っていた従僕が目を大きくしていた。家の中で走るステラを見た事がなかっただろう。
十数歩置いていかれてから、従僕も走ってステラのあとをついていった。
と思いきや、二分もせぬうちに同じ従僕が戻って来た。
「主人からの言伝です。パルレ様が心配してお見えになっていると。貴女様がよければ、彼女も朝食を一緒にと」
「もちろん、と答えておいてくれる?」
トオルが笑いかけると、従僕は頬を赤くした。
「は、はい」
従僕が去り、しばらくするとステラとパルレがやってきた。
パルレはトオルを見るなり、抱き付いてきた。
「よかったご無事で」
「情けない所を見せたね」
「そんなことないです。そもそも私のせいで」
「そういうのは言いっこなしだ。運よく助けてもらえたわけだし、万事解決だよ。ステラさんは優しいし」
トオルがそう言うと、パルレはステラがいた事を思い出したようで、ステラの方を向いて頭を下げた。
「本当に助かりました」
「いいえ、スラムの管理者として当然事をしたまでですから」
ステラは笑って言ったが、その心は笑っていないとトオルは震えた。
正確に言えば笑ってはいる。しかし、それは心からのものではなく演技だ。
彼女と面識がなければ見破れない。ステラがほとんど顔色を変えないとわかっていればおかしいことがわかる。
今回の笑みは少しぎこちない。ステラの場合、笑みが崩れているほど危険である。作り笑いすらできないということだからだ。
頬を赤くして、チラチラとトオルの顔を見ているパルレは全く気付いていないようだった。
キスの効力は作用しているらしい。
そのことには安堵しつつ、嵐の予感をトオルは感じていた。