三話-足掛かり
トオルは寝苦しさを覚え、目を覚ました。
熱いわけでも、寒いわけでもない。ただ、眠りが浅いだけ。
昨日今日始まった話ではなく、転生してからずっと熟睡できていなかった。
右向きに寝ていたのを、左向きに変える。
「んぅ」
トオルの寝返りで、ステラが寝息を強くした。
隠れ家はボロ家なので、造りが甘い。壁には隙間があって、月明かりが差し込んでくる。
ステラ・ハイフは綺麗な女だった。彼女の綺麗な顔を、トオルは触れるかどうかという力加減で撫でていく。長い睫毛に滑らかな肌。唇は艶々としていて、指で触れると吸い付くのがわかる。それに黒髪もいい。ネメスでは多種多様な髪色の人間がいるが、元は日本人のせいか黒髪に愛着がある。
造形の美しさと趣味、両方を兼ね備えているのがステラだ。
しかし、そんな彼女を見ても、トオルの胸中は冷めている。綺麗だとは思うものの、それ以上の感情が湧かない。一緒に眠っているのでさえ、喜ばしいことよりも義務的な何かに感じている。
菊池トオルなら違った。前世でなら飛び上がっていた、そう彼自身確信できる。
そして、そうできない理由もハッキリしている。
「俺は悪魔の子だからだ」
トオルの呟きが答えだった。
両性具有である以上、ネメスで普通は望めない。常に生命を脅かされている。
加護はなく、あるのはよくわからないキスの魔力だけだ。
菊池トオルがネメスに転生した際、神様からアナウンスがあったわけではないし、取扱説明書もない。親もいなければ、親切な友人もいない。
突如、覚醒して、泥を啜って生き延びて学習していったのだ。いつ吊し上げられるかと怯えてずっと。
よくわからないあやふやな力だけでは生きていけない。だからこそ、何か手を打たなければ――。
「おはようございます」
ステラの声でトオルは目を覚ました。
いつの間にか眠りに戻れていたらしい。
「おはよう」
目の前にいるステラに挨拶を返す。彼女はベッドに入ったまま、トオルの顔を至近距離で眺めていた。
「面白い?」
「ええ、とても」
からかったつもりが真顔で返され、トオルは勢いを失った。
だが、すぐに切り替えられる。左腕をベッドについて身を起こして、ステラの額に唇を押し当てる。
「実は頼みがあるんだ。男装を止めようと思って、服を身繕ってほしいんだよ」
「私が、ですか?」
トオルは笑って、頷いた。思いつきではなく計画だった。
男装をしていたのにも理由があり、それを止めるのも理由がある。
ステラは一見真顔に見えるも、眉を下げて思案している。こうやって、悩むとトオルは考えていなかった。喜んでと言うと思ったのだ。
「わかりました」
「もしかして嫌だった?」
「そんなことはありません。でも、私で大丈夫かな、と」
トオルはステラの鼻を軽く押した。
「君だから頼ったんだ。いつも綺麗な服を着ているだろ」
ステラは恋愛事や、容姿についてあまり自信がないようだった。
実際の所、ステラは自分の美に無頓着ではある。化粧は薄目で、普段の服装はシンプルなシャツとロングスカートが多い。こだわりはないのだろう。
そのせいで無個性とも言えるが、支障はなかった。背が高く、細くも出ている所は出ている肉体美のおかげで十二分に美しい。そして、目利きも悪くはない。スラムの管理者として色んな商売を管轄しているから、目も養われていた。
ファッションセンスや、美容情報に詳しい者は他にもいる。それでもステラを選んだのは、彼女といるのが一番安全だからだ。金もあり力もある。最低限の目利きもできる。何の問題もない。
もちろん、そんなことは伝えられないので、まだ迷うステラにトオルは畳みかける。
「君は綺麗だよ。いつも静かに凛としている。その控え目な感じがたまらない。僕がどれだけ君を美しいと感じているか伝えられないのが残念だ」
トオルはステラの目を見て、嘘を織り交ぜる。
正直な感想ではあるけれど、感情は嘘偽りだ。綺麗だし、凛としている。けれど、たまらなくはないし、残念とも思わない。
心情と間反対のことを言っていても、淀みはなかった。
こういうのは勢いだ。照れていては上手くいかない。
トオルは目を逸らさずに、ステラの唇に右手で触れる。目を見ているから手探りで、下唇を人差し指と親指で摘まみ下げ、中指で歯をくすぐる。温かな吐息が指にかかる。
優しく、こそばすように、彼女の心の周りを撫でていく。
そうだよ、ステラ・ハイフ。君は僕の為に働くんだ。
俺が、この地獄から抜けるための足掛かりになってもらう。
やはりパソコンの調子が悪いので、明日明後日は更新をお休みします。明々後日をお待ちください。
一章はあと三話で終わります。そこから七日から十日ほどお休みをいただいて、毎日更新で二章を、と考えております。