ニ十七話-埋まらぬ堀
トオルが、リーリエの屋敷に住み始めてから三週間が経った頃から、トオルは屋敷の仕事を手伝い始めた。手伝いをする理由はもちろんある。
前世でニートだったから、家事はしていた。雑用の経験はネメスにきてもあるため、苦戦することなくこなせる。
屋敷の仕事はクロとニクルで役割分担されていた。クロが掃除と洗濯、ニクルが料理である。
ニクルの仕事よりもクロの方が手伝える部分が多い。そのため、トオルはクロの仕事を手伝うことが大半だった。
今日もクロの仕事である庭の手入れを終えた。休日は朝から手伝っている。
昼過ぎから始めたので気温が高く汗ばんでしまっている。上半身を塗れたタオルで拭いていく。女性となって数年経っているが、胸が育ってきたのはここ最近のため、自分の体とはいえ触れるのにドキドキする。うっとりすることすらあった。ついつい触りたくなる感触なのだ。
そんなことを考えている時に視線を感じたので、トオルは急いで振り返った。
「やあ、クロか。今、庭の方が済んだよ」
「ご苦労様です」
どこかぶっきら棒なクロの言い方だったが、一々気にするトオルでもなかった。薄々感じていたが、どうやら嫌われているらしい。
最低限の関係を築ければいい、という訳にはいかない。リーリエを攻略するには外堀が重要だった。
手伝いを始めたのも、クロとの時間を確保するためだ。助けてもらった相手を無下にはしずらい。打算まみれのお手伝いだ。
が、全く効果がないようだ。それどころか、いつの間にかクロから嫌われていて距離を詰めかねている。そう、いつの間にかだ。初めから嫌われていたわけではない。元々、感情の起伏は乏しかったものの、棘はなかったはずだ。
それが今は言葉の端に敵意を滲ませている。
「そういえば、この後ニクルとお茶をするんだけど、クロもどうかな?」
「結構です。仕事がありますので」
言葉遣いは変わらない。外見もパッと見れば一緒だろう。
それでも、僅かな差があった。それが毎度となればわかってくる。やはり嫌われているのだ。
「なら、手伝おうか?」
「いいえ、それも結構です」
アプローチの仕方が悪いようだ、とトオルは認識した。
初対面から嫌われていたわけではないし、何か悪い事をしたのだろう。まずはそれを探さなくては。
元々、談笑する間柄ではなかったが、ここまで冷たくされることもなかった。どうしてだろう?
「邪魔したみたいでごめんね。それじゃあ」
「そんなことはありませんよ。では」
トオルは笑顔を崩さず話していたが、クロの方は一度も表情を変えず、会釈だけして去って行った。
メリドでも昼食と夕食の間に休憩がある。ティーブレイクと一般的に呼ばれており、紅茶と軽食をつまむ時間になっていた。異世界にいるはずなのに、地球と似通った文化があるのだから面白い。
用事がなければトオルはニクルの仕事を率先して手伝い、彼女とティーブレイクを過ごすようにしていた。一度高めた好感度を落すことは愚の骨頂である。
そのため、リーリエよりもニクルの方がこの時間を共に過ごしている。
今日は庭の手入れが長引き、手伝う事ができなかった。だが、トオルが部屋に戻るとニクルが既にお茶の準備をしていた。
ドライフルーツが入っているクッキーとトオルの分の紅茶が既にテーブルに置かれており、微かにいい香りがする。
「ありがとう、ニクル。相変わらず手際がいいね。まるで来るのがわかっていたみたいだ」
ニクルはそんなことないですよ、と手と顔を振って否定した。彼女は口よりも、身振り手振りの方をよく使う。咄嗟に言葉が出ないようだった。
彼女は落ち着いてから自分の分の紅茶を入れた。
「さ、冷めますから」
やっと出たニクルの言葉に、トオルは微笑んで頷いた。
二人は対面になるようテーブルに座り、紅茶をすする。
「あの、熱くなかったですか?」
「ちょうどいい加減だよ。ボク好みだ」
そう言って、トオルは紅茶を飲み干した。彼女は前世からお茶であれお酒であれ、グラスに入っていればつい空にしたくなる性分なのである。もちろん、礼節を問われるような場であればそんなことはしない。つまり、トオルはニクルに気を許しているのだ。
ニクルとのティーブレイクでは素を出していた。嘘はつくし、騙しもするが、身構えていては勘付かれる。無防備な所も見せなくてはならない。
「このクッキー美味しいよ。作ったの?」
「はい。これもここに来て覚えたんです」
頬を赤くしたままニクルは紅茶を飲んだあと、口を開いた。
「そういえば、熱いのが苦手ってトオル姉さま、可愛いですよね」
拳を作って口元にやり、ニクルはクスクス笑った。彼女の少し茶化すような仕草も珍しくない。それはニクルもトオル同様、気を許しているのだろう。
どちらかが真摯に歩み寄れば、自然と近づき合うのが人間関係である。
「ボクの分は事前に入れてくれていたんだね。ということはやっぱり、ここに来るのを見ていただろ?」
「はい。庭にいたから見えたので」
「いけない子だ。仕事をサボるなんて」
トオルが手を伸ばしてニクルの耳朶を優しく摘まむ。
ニクルは面白いぐらい身体を震わせた。
「冗談だよ。ありがとう。ボクが猫舌だから事前に入れてくれたんだよね」
「そうです」
「でも、話したっけ?」
「いえ、お食事の時とかに見ていて気付きました。歯を合わせて、ヒーってよくやってますよね」
「ニクルにそう言われると照れるな」
トオルは親指の付け根を唇に置き、手を広げ頬を隠す。
「でも、これからはボクがニクルの可愛いところを見る番だ。さあ、始めようか」
「お願いします」
座ったまま礼をしたニクル。彼女がテーブルを片付ける前に、トオルが片付けを始める。
「準備はニクルがしたんだし、片付けはボクがするよ。その間に、筆記用具を出しておいて」
「はい。ありがとうございます」
トオルが片付けを終えると、ニクルはやる気十分といった様子で鉛筆を握っていた。
ティーブレイクと仕事の合間に、ニクルは読み書きの勉強を始めたのだ。これはトオルが提案したものではなく、ニクルからお願いされた。読み書きができれば、もっとリーリエ様に尽くせる、とのことである。
この世界の文字は三十字だけで、それらの組み合わせで単語や文を構成している。
ニクルは話すことはできるので、いつも話している言葉を文字に置き換えてやればすんなり覚えていった。どちらかといえば、綺麗に文字を書く事の方が苦戦している。
なので、日常生活でよく使う単語の書き取りをさせていた。
すぐに飽きそうな作業をニクルは真剣に取り組んでいた。彼女は集中していると頭が小刻みに揺れる。それに合わせて茶髪も揺れ、良い匂いが漂う。置物としても重宝されそうだなあ、などとトオルは思った。
几帳面にも紙の端まで単語で埋め尽くしたニクルは大きく伸びをした。胸部が見事に強調されるが、トオルはそちらよりもだらけたニクルの表情にそそられる。今や女性となった彼女にとって女性の裸体を見るのは日常だから、ふとした表情や仕草の方が気になるのは自然なことかもしれない。
「お疲れ様、ずいぶん綺麗に書けるようになってきたね。それに速くなってる」
トオルに褒められると、ニクルは顔を真っ赤にした。賛辞に弱い少女である。
そんなニクルが可愛らしくて、トオルは身を乗り出してつい頬にキスをしてしまった。
ニクルは躱しはしなかったものの強張ってしまう。初めてキスをした後、トオルがキスをすることがなかったので、これで二度目になる。元々、緊張しやすいニクルに二度目で慣れろ、というのも難しい話だ。
「ごめん、嫌だったかな?」
椅子に座って俯いているニクルをトオルはしゃがんで下から覗き込む。レイヤーボブに隠れていた可愛らしいニクルの翠色の瞳がトオルを映す。その瞳には怒りはなく、恥ずかしさはあったけれど、懇願の色が一番濃く出ていた。
「口にもしてください」
か細くニクルが言う。トオルは答えず、ニクルの前髪をかきあげて額に口づけする。その後、唇にも口をつけた。
日付が変わろうとしている頃にリーリエが帰宅する。
静かに扉を開け、施錠する。使用人が出迎えるのが当然なのだが、リーリエはそれを止めさせていた。毎週毎週遅くなるのだから、と。
トオルはリーリエを放っていたわけではない。彼女を蕩かすのが最終目的だ。クロとリーリエであれば、リーリエに時間を割くべきである。
だが、それが出来ないからクロから攻略しようとしている。
リーリエ・イノは学生の身分でありながら、社交界に身を置いていた。大神官の娘である彼女は既に政治に深く関わることが決まっているからだ。
本来であれば従者を帯同していくものだが、リーリエはトオルにその必要はないと言った。
「いきなり慣れない世界に飛び込むのは大変だからね。学生のうちはいいよ。ニクルも君が居れば喜ぶしね」
つまり、リーリエに近づけないのは慎重に動いているからというのもあるが、リーリエ本人が忙しすぎるせいだった。
トオルは隠れていた通路から顔を出した。
「お疲れ様」
「ありがとう。でも、疲れてなどいないよ」
リーリエは自分の帰宅を待っていたトオルに微笑んだ。
トオルが出迎えたのは初めてだ。なのに、リーリエは驚きすらしない。
手強い相手だ。
クロの攻略が難航しており、ニクルや他の人からリーリエの情報を掴めていない。そこでトオルは新たな行動に移った訳だ。
だが、リーリエの優等生ぶりは剥がれない。
リーリエは学園がある日でさえ忙しない。目が覚めると体を動かし朝食、学園では勉学に励む。帰宅後も文武を磨く。トオルはリーリエと三週間過ごしていて、彼女が遊んでいるのを見たことがない。
隙が全く見当たらないのだ。生活態度も、人間性も、ふとした仕草まで汚点が見つけられない。あるとすればあまりにも綺麗すぎるぐらいか。
服や化粧も知識はあるが好みらしい好みはない。服はもらうものを着ているだけで買うことはないそうだ。
「こんな夜まで、ですよ? 自分の好きな事をしていたって疲れますって」
「そうかもね。でも、私の場合は当然だから」
リーリエは謙遜しているわけではなく、本気で自分は大したことをしていないと思っているらしい。
相手と手軽にコミュニケーションを取るなら、相手を褒めるのは有効な策だ。褒められて気分を害する人は少ないし、気が昂れば饒舌になる。火をつければこちらのものだ。
しかし、リーリエには通用しない。どれだけ褒めても、当たり前だとか、普通だとか、まだまだだと言うのだ。
「当然でも普通でもないですよ。大人だって、こんな過密日程なら病気になりますって。リーリエ様が異常です。皆が皆こうしないといけないと困りますよ」
色々、リーリエに試しているうちに、トオルは少し馴れ馴れしく話すようになった。
友人を求めているから、少しずつだ。
「そういうものかな?」
リーリエはクスクス笑って首を傾げた。
こんなやり取りでさえ、楽しそうにしている。
クロの攻略はともかく、リーリエとは良い距離を保てていた。