二十三話-可愛らしい羊
マッサージを終えたトオルはリーリエに見送られ部屋から出た。
トオルが歩き出してから、扉が閉まる。出来過ぎた主人の目から離れ、トオルは息をつく。
心身ともに美しい女性。トオルはリーリエといると、ステラやエニティン、その他の女性たちには感じない緊張を感じた。気圧される程の美しさなのだ。
それでいて、不可解な存在である。仲良くなっているはずなのに、手ごたえは全くなかった。
「あっ」
トオルが背にかけらた声を確認すると、ニクルがいた。
彼女は茶色の髪をボブカットにして整えていて、いつもややうつ向き気味だ。背が低いこともあるがこじんまりとした印象があった。
何か言いたそうな顔をしていたので、トオルは立ち止まってニクルに笑いかけた。彼女らの好感度も重要である。
「トオルさん、何をしてたんですか?」
一週間も経てば、隙のあるニクルとは距離をある程度詰められている。彼女に緊張はなく自然と振る舞っていた。
そろそろか、とトオルの上唇が浮いた。
「リーリエにマッサージだよ」
「まっさーじ?」
「気になるなら今日の夜してあげる。仕事が終わったら、私の部屋においで」
これも計画していた策だった。使用人にマッサージをして、リーリエの情報を聞き出すつもりだったのである。
埋められる外堀は全て埋める。出来る準備はしておくに越したことがない。博打は出来るだけ打ちたくなかった。
「失礼します」
約束通りニクルはトオルの部屋にやってきた。小さな体躯に不釣り合いな大きな乳房がパジャマによる薄着で強調されている。今は五月なので普通の格好だった。
暦は日本と同じく一年が三百六十五日と変わらないが、メリド大陸は季節の移り変わりが激しい。四月まではとても寒いのだが、五月にもなると薄着でよくなる。暑いのが五月から九月まで。寒いのが十月から四月と、寒い時期の方が長い国であった。
「待ってたよ、ニクル。さ、ベッドに寝転んで」
「え、は、はい」
ガチガチに体を硬直させて、ニクルはベッドに座った。寝転ぶことに躊躇しているらしい。
一週間で距離は詰められたが、あくまである程度だ。どこかで遠慮している部分がある。
これではマッサージの効果もでないだろう。
なので、トオルは世間話から始めることにした。
「ニクルはいつも料理をしてくれてるんだよね」
「あ、はい。姉は掃除や洗濯をしてますね。家でそうだったので、自然とそういう風に」
「家でもしてたんだ。だから、あんなに料理が上手いんだね」
「いえ、そんなことはありませんよ」
ニクルは首を振って顔を伏せ、前髪で表情を隠す。話すのが苦手なのか、今でも時々言葉をつまらせることがあった。
トオルはゆっくりニクルを待つ。自分のタイミングさえ掴めたら話始める。
「家でしていた料理は限られた具材でしたけど、ここはたくさんあるから楽しいです。リーリエ様に調理法も教えていただきましたし」
トオルは狙いを定めていた情報を笑って拾う。
「そうなんだ。リーリエ様は優しいよね」
「はい。わざわざ私と一緒に料理をしてくださったこともありますし、読み書きができないから調理の本の音読も」
トオルが来る前から使用人に対してずいぶん親しい態度だったようだ。リーリエを知れば知るほど白い。純白とはまさにこのことだ。
それがどれほど珍しいかはトオルがよくわかっている。幸運だと手放しに喜べるほどだ。
なので、共通点であるリーリエを褒めることで会話を弾ませる。
そうしていると、ニクルは表情を緩ませ、しきりに話しかけてくるようになった。十分、ほぐれただろう。
「ごめんごめん。マッサージのこと忘れてたね」
「あ、そうでした」
照れ笑いを浮かべ、ニクルはベッドに横たわった。
トオルが信用されたこともあるが、話の最中マッサージの説明も挟んだので、マッサージに対する恐怖心は全くなくなったようだ。
弱めの力で指圧していく。
「あ、気持ちいい」
「それはよかった」
ニクルの体は柔らかかった。広い屋敷の家事を行っているので、決して太っているというわけではない。痩せも太りもしていない適度な肉付きだ。リーリエは引き締まっているが、二クルはそこまでいかないというだけだ。
胸自体の大きさもリーリエとそう変わらない。違いがあるとすれば、ニクルの豊満な体と小柄な体躯のアンバランスさだ。組み合わせてはいけないパーツで構成されているので、劣情を集めやすいだろう。
スラムで生活していたら特に危険だろうなあ、とトオルは思った。
「ああ、そこちょっと」
「痛いかな。でも、こうして伸ばすと」
「ほんと。いいです」
などとニクルは反応を示していたが、気持ちいいのか次第に口数が減っていき、ついには話さなくなった。
「ニクル、聞きたいことがあるんだけど」
「ふ、はあい」
あくびをして、ニクルが返事をしてくれた。
本来、マッサージ中にうとうとしているなら起こす必要はない。しかし、そうしないとトオルが困るのだ。
リーリエのような美しい少女に触れ、艶かしい声を聞いたから並み大抵のことでは揺るがない。そう考えていたトオルだったが、その考えは甘かったと悔やんでいた。
ニクルもリーリエもあまりにも魅力的だった。ステラと交わしてきた事を考えれば健全も健全な内容だったが、これはこれそれはそれというものらしい。であれば男だった人間にそういう気分になるな、というのが無理な話である。
今も股間には男性器が備わっているので、外見上は女性だがトオルの心は男性のままだった。女性になろうと努力しているのである。
これは甘えだとトオルは劣情を唾棄する。お前にそんな余分なものは必要ない。お前は悪魔の子なんだぞ?
「私はリーリエ様と学校で知り合った訳だけど、貴女たちはどこで知り合ったの?」
「スラムです。リーリエ様がわざわざ来てくださって」
「わざわざ?」
トオルは努めて平静に聞き返した。使用人より下の地位である従僕であれば、スラム出身でも珍しくはない。しかし、使用人をスラム出身者が務めるというのは聞いたことがなかった。
使用人というのは文字で見るとたいしたことのないように思えるが、ネメスではそれなりに高い身分である。教養が必要とされており、誰もがなれるわけではない。イノ家のような名家ならば、使用人養成所を出た人間が務めるはずである。
加護がないようだとは思っていたが、スラム出身とは思っていなかった。貴族や一般人で加護がなかった子供だと思っていたのだ。
「えっと、二年前の三月ごろ、スラムの住宅街に使用人を探すために来られていたんです。バイル学園に入学する際、使用人を連れてこなかったそうで、加護を持たない私たちの元へ。トオルさん?」
「ああ、ごめん。気にしないで」
思わず手を止めてしまったトオルは指圧を再開した。
スラムは大まかに見ると二つの役割が、場所によって分けられてある。スラムの商業地である歓楽街と彼らが住まう住宅街だ。
通常、貴族が遊ぶ玩具や従僕などを探すのは歓楽街だ。そこに商品として用意されているのだから当然である。なので、貴族が住宅街に入ることはまずない。
歓楽街は衛生面もそれなりに整っているが、住宅街の場所次第では疫病の巣といって差し支えない場所もある。
わざわざ住宅街で、使用人を探す必要がどこにもないのだ。
トオルはリーリエのことを不可解、変わり者だと思っていたが、ここまでとは想像もしていなかった。
「なんでも、奴隷を買うつもりはない。物ではなく対等に私と契約して働いてくれる者がいいのだ、とか。私はその意味がよくわからなかったから、お姉ちゃんに後は任せました。その結果、お姉ちゃんも私も加護がありませんが、ここに使用人として雇われています」
ニクルは、それが幸運なことだとは馬鹿でも気づいてますよ、と付け足した。
台詞だけでは推測しかできないが、商品として売られているものより、スラムの住民のほうがいいということらしい。奴隷と住民、スラムの中の順列など貴族から見れば大した差はない。むしろ、奴隷として売られている者のほうが、用途に応じた教育が行き届いている。トオルにはリーリエの考えが理解できなかった。
とにかく、今言えるのは、リーリエが一般的な貴族と違い、いやネメスの人々と違って、スラムにいる人間だからと差別しないということだ。
「そういえば、前の従者が辞めた理由って知ってる?」
「はい。お母様が選んだ人間は私に雇われているのではなく、お母様に雇われている。だから、私の望みを叶えてくれないんだ、と」
リーリエの望み。それはなんだろうとトオルは頭を働かせるが、良い意見しか出てこない。リーリエという少女から悪しき考えが生まれそうにないのだ。
しかし、それを信じきることができないのが、菊地トオルという人間だった。彼は転生し、スラムで暮らしてきたことによってそういう風に変化してしまった。
だから、リーリエという存在が不可解なものでしかなかったし、いくら悩んでも答えは出ない。
考え事をしながらでも、身に染み付いたマッサージは問題なくできていた。
だらしなく頬を緩めている二クルを見て、トオルは考え事を中断する。出来ることをしていくしかない。
まずはこの隙だらけの少女を堕とすとしよう。簡単に出身を明かすような可愛らしい羊なのだ。